第52話 秘密を共有する条件
放課後の教室。
西日が差し込む中でプリントを整理していると、背後に気配を感じた。
「白石くん」
その、鈴を転がすような、けれど温度のない声。
振り返ると、入り口に春野さんが立っていた。
教室にはまだ数人の生徒が残っていて、俺たちを好奇の目で見ている。
「……何かな、春野さん」
「ちょっとだけ、お話いいかな?」
彼女は完璧な笑顔を崩さない。
けれどその瞳の奥には、獲物を追い詰めるような冷ややかな光が宿っている。
俺は立ち上がり、廊下へ出た。
あえて人通りのある場所を選ぶ。
二人きりの「密室」は、今の俺には危険すぎた。
「昨日の、続き?」
「うん」
春野さんが一歩、踏み込んでくる。
「あのね、白石くん。私、意地悪して全部言いふらすつもりなんてないんだよ?」
「……なら、なんでわざわざそんなことを言うんだ」
「でもね」
彼女が小さく、唇の端を吊り上げた。
「私が黙っているためには、条件があるの」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
条件?
「……どんな条件だ」
「それは――また今度。楽しみにしててね」
春野さんはそれだけ言い残し、軽やかな足取りで去っていった。
何を求めているのか、何を知っているのか。
霧の中を歩いているような不気味さが残る。
けれど、俺の心は折れていなかった。
逃げたら、またあの孤独な過去に引き戻される。
それだけは、もう御免だ。
終礼が終わり、美咲はいつもより静かに鞄をまとめていた。
「橘さん」
「……なに、白石くん」
声をかけると、彼女は平静を装って顔を上げた。
けれど、その瞳の奥には隠しきれない不安の影が揺れている。
「後で、少し話せる?」
「うん。……わかった」
短い返事。
それだけで、俺たちの想いは重なった。
彼女も気づいている。
何かが、動き始めていることに。
学校の裏門近く。
人影の途絶えた場所。
美咲が、先に待っていた。
「……お待たせ、美咲」
「ううん。……春野さんと、お話ししてたね」
見ていたのか。
彼女は頷いて、少しだけ視線を逸らした。
「……何か、言われた?」
聞きたい。
けれど、聞くことで俺を追い詰めたくない。
そんな、絞り出すような切ない声。
俺は深く息を吸い込み、彼女の真っ直ぐな瞳を見つめた。
「全部は、まだ言えない。春野さんが何を企んでいるのか、俺にもわからないんだ」
美咲の肩が、微かに震える。
「でも」
俺は彼女の細い肩に手を置き、一言ずつ刻みつけるように続けた。
「隠すつもりはない。順番に、全部話す。俺の過去も、汚いところも、怖いところも。美咲には、俺の全部を渡したいんだ」
美咲の目が大きく見開かれ、やがてじわじわと涙が溜まっていく。
「……本当? 本当に、全部、信じていいの?」
「本当だ。約束する」
美咲が、小さく笑った。
泣き出しそうな、でも世界で一番愛おしい笑顔。
「ありがとう、悠真くん。……私、ゆっくり待ってるから」
重なり合った二人の掌。
彼女の手は、いつだって驚くほど温かくて、俺の臆病な心を溶かしていく。
帰り道。
コンビニの自販機で飲み物を買う。
「何にする?」
「んー……レモンティーがいいな」
「俺も。……あ、被った」
同じボタンを同時に押す。
コトン、と二本の缶が並んで落ちてきた。
美咲は一本を受け取ると、自分の缶を俺の缶に軽く当てた。
「乾杯」
「……乾杯」
小さな金属音が、夕暮れの街に響く。
「……美咲」
「なに?」
「ここでなら、名前で呼べるな」
美咲は少し照れたように、顔を真っ赤にして笑った。
「うん。……悠真くん」
誰も俺たちを知らない場所。
ここでは、俺たちはただの「恋人」になれる。
歩幅を合わせて歩きながら、美咲がふと立ち止まった。
「ねえ、悠真くん。……怖くない?」
「何が?」
「これから。春野さんのことも、クラスの噂も。……文化祭だってあるし」
彼女が見上げる瞳には、覚悟の光が宿っていた。
「でも――私は、もう大丈夫だよ。悠真くんが、隠さないって言ってくれたから。だから、私も逃げない」
俺は愛おしさに耐えきれず、彼女の頭をそっと撫でた。
「……ありがとう、美咲。俺も、君がいるから怖くない」
翌日。
昼休み。
幸せな余韻を打ち砕くように、真琴がニヤニヤとした笑みを浮かべて美咲の席にやってきた。
「ねえねえ、美咲。……文化祭ってさ」
「……なに、真琴。その顔、絶対ろくなこと考えてないよね」
「ひどーい。私、ただ『一番バレるイベントだよね』って思っただけだよ?」
真琴の言葉に、美咲の体がピタリと固まる。
「バレるって……何が」
「だって、クラス全員で準備するし、写真も動画も撮り放題でしょ? 誰かと誰かが怪しいなんて、隠せるわけないじゃん」
真琴が、俺の方をチラリと見て楽しそうに笑う。
「隠し通すのか、それとも『公開』しちゃうのか。……見ものだね」
それだけ言って、彼女は嵐のように去っていった。
美咲と俺は、思わず顔を見合わせる。
文化祭。
それは、俺たちが最も恐れ、そして最も待ち望んでいた「審判の時」なのかもしれなかった。




