第49話 相談の距離、彼女の嫉妬
放課後。 西日が差し込み、オレンジ色に染まった教室で、俺は荷物を整理していた。
「白石くん、今いいかな?」
不意に頭上から降ってきた軽やかな声。
顔を上げると、そこには昨日LINEをくれたクラスメイト――春野さんが立っていた。
確か、いつも賑やかなグループにいる、明るい性格の女子だったはずだ。
「あ、春野さん。……うん、大丈夫だけど」
「やった、ありがとう! 昨日の、本当に助かるよ」
春野さんは自分のノートを抱えたまま、迷いなく俺の机のすぐ横まで歩み寄ってきた。 「近いな」と反射的に思うほど、彼女との距離に余裕がない。
ふわりと、美咲のそれとは違う、シトラス系の香水の匂いが鼻を突いた。
「えっとね、数学のここ。二次関数の応用問題なんだけど、解説読んでも全然意味不明で……」
彼女が俺の机にノートを広げる。
覗き込むために体を寄せると、彼女の肩が俺の腕に触れそうなほど近づいた。
「……あ、ここはね。まず軸を求めてから、範囲で場合分けするんだ」
「軸を求める……あ、そっか! そういうことか!」
俺の説明に、春野さんは「なるほど!」と目を輝かせて相槌を打つ。 一見、どこにでもある『教え上手な男子と、それを頼る女子』の光景。
けれど、ノートを指さす彼女の手が、俺の手のすぐ隣にある。
彼女に他意はないのだろう。
単に勉強に夢中なだけなんだろうけれど。
「わかった! 悠真くんって、本当に教えるの……あ、ごめん。白石くん、だよね」
不意に、名前を呼び間違えそうになって彼女が照れくさそうに笑った。
「悠真くん」なんて呼ばれるのは、美咲だけの特権だったはずなのに。
「……白石くん、教えるの上手だね。すごくわかりやすかった」
「そんなことないよ。……役に立ったなら良かった」
「ううん、大助かり! また困ったら、頼ってもいい?」
「……まあ、俺にわかる範囲なら」
「やった! ありがとう、また明日ね!」
春野さんは満面の笑みで、パタパタと教室を去っていった。
嵐が去ったような静寂。
俺は小さく息を吐いて、再び荷物をまとめ始める。 ただの相談。
ただの勉強。
一点の曇りもないはずの放課後。
けれど、俺はまだ気づいていなかった。
開いたままの教室の扉の陰に、ずっと動かずに立ち尽くしていた、小さな影に。
【視点:橘美咲】
廊下の窓越しに、その光景が目に飛び込んできた。
真琴とお喋りしながら歩いていたはずなのに、磁石に引き寄せられるように、私の足は止まってしまう。
夕闇の教室。
悠真くんが、女の子と二人きりで座っていた。
「……近い」
思わず、独り言が漏れた。
彼は真剣な顔で何かを説明しているけれど、相手の子はノートを見るフリをして、時々、蕩けるような笑顔を悠真くんに向けている。
ただの勉強。
いつもの、優しい悠真くん。
頭ではわかっているのに、胸の奥が、ぎゅっと雑巾を絞られたみたいに苦しくなった。
「……美咲? 足、止まってるよ」
真琴の声で、私はハッと我に返った。
「あ、ごめん。なんでもない」
「なんでもなくないでしょ。窓、穴が開くほど見てたよ?」
真琴はいたずらっぽく笑って窓の中を覗き込み、「ああ」と納得したように頷いた。
「白石くんと、春野さんか」
「……春野さんっていうの?」
「うん。人懐っこくて、ちょっと距離感近い子だよね、あの子」
真琴の言葉が、小さな棘になって刺さる。
「……嫉妬、してる?」
「してない」
即答したけれど、自分の声が少しだけ震えているのがわかった。
真琴は私の肩に腕を回して、ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる。
「即答するってことは、重症だね。大丈夫だよ、白石くんがあんな無防備な子にフラッとするわけないじゃん」
「……わかってる。信じてる。でも」
見たくない。
私だけの悠真くんでいてほしい。
そんな自分勝手な独占欲が、私の中にもあったんだ。
「……私、変かな。こんなの、わがままだよね」
「変じゃないよ。好きな人が他の女の子と楽しそうにしてたら、誰だってモヤるって」
真琴が明るく笑って、私の背中をポンと叩いた。
少しだけ、心が軽くなった気がした。
けれど、胸の奥の「モヤモヤ」は、夕暮れの影のように消えてはくれなかった。
【視点:白石悠真】
帰り道。
秋の冷たい風を頬に受けながら歩いていると、ポケットのスマホが小刻みに震えた。
美咲からのメッセージ。
『お疲れさま。……今日は、大忙しだったね』
その一文に、心臓がドクンと嫌な音を立てた。
『お疲れ。……見てたのか?』
『うん。数学、教えてあげてたでしょ? 優しいね、悠真くん』
「優しい」という文字が、今はなぜか、突き放されたような鋭さを持って迫ってくる。
俺は街灯の下で立ち止まり、必死に言葉を探した。
言い訳をしたいわけじゃない。
ただ、彼女を不安にさせたくない。
『春野さんに質問されただけだ。でも……』
消す。
『ごめん、嫌だったよな』
また、消す。
文字を打っては消し、指先が冷たくなるほど迷った末に、俺は最短で、最上の答えを叩きつけた。
『俺が本当に優しくしたいのは、美咲だけだよ』
送信。
一瞬で「既読」がついた。
けれど、そこから沈黙が続く。
一分。
二分。
心臓の鼓動が耳元まで響き、冷や汗が流れる。
やがて、スマホが震えた。
『……わかってる』
『わかってるけど、そんなこと言われたら、もう何も言えないよ』
『……ありがとう、悠真くん。大好き』
白く光る画面を見つめ、俺は大きく安堵の息を吐いた。
夜の空気は冷たいけれど、スマホを握る掌だけは、いつまでも熱を帯びていた。
翌日。
朝の教室は、いつも通りの穏やかな光に満ちていた。
「おはよう、白石くん」
「……おはよう、橘さん」
交わす言葉は、クラスメイトとしての余所行きの挨拶。
けれど、すれ違いざまに彼女が俺に向けた視線には、昨晩のLINEの余韻――「大好き」と言ってくれた熱が、確かに宿っていた。
授業中。
隣の席から、ちぎったルーズリーフの切れ端が、そっと俺の机に滑り込んでくる。
『昨日はごめんね。実は、ちょっとだけヤキモチ焼いてた』
可愛らしい文字と、拗ねたようなウサギの落書き。
俺は口元が緩むのを必死に堪え、その端に返事を書き込んだ。
『そんな美咲も可愛いよ』
俺が紙を戻すと、美咲の耳がみるみる赤く染まっていくのが見えた。
言葉にしなくても、指先と文字だけで、俺たちは繋がれる。
この幸せが、ずっと続くと信じていた。
昼休み。
廊下を歩いていると、背後からひそひそとした話し声が聞こえた。
「ねえ、聞いた? 白石くんのこと」
「え、何? 春野さんと……ってやつ?」
「そうそう。なんか昨日、放課後に二人きりで……」
声は、俺が立ち止まると同時に波が引くように遠ざかっていった。
振り返っても、誰もいない。
けれど、その場に残された空気は、べっとりと肌にまとわりつくように不快だった。
噂。
根も葉もない、形のない煙。
けれど、火のない所に煙は立たないと言うように、俺と春野さんが一緒にいたという「事実」だけが、歪んで広がり始めている。
美咲は、気づいているだろうか。
俺のせいで、彼女を傷つけていないだろうか。
胸の奥で、黒い予感が渦を巻き始めた。
放課後。
人目のつかない、旧校舎裏の桜の木の下。
そこが、今日の待ち合わせ場所だった。
夕闇が迫る中、美咲が一人で待っていた。
「……悠真くん」
「美咲」
名前を呼び合う。
たったそれだけで、張り詰めていた心が解けていくようだ。
俺は迷わず、彼女の華奢な手を握りしめた。
「噂、聞いた?」
美咲が、俺の胸元を見つめながら小さく問いかける。
「……ああ。少しだけ」
「私も、聞いたよ。春野さんと付き合ってるんじゃないか、って」
美咲の手が、ぎゅっと俺の手を握り返す。
痛いほどに強く。震えるように。
「でも、大丈夫」
美咲は顔を上げ、強がりの混じった、けれど凛とした笑顔を見せた。
「だって、悠真くんの『一番』は私だもん。……そうでしょ?」
その健気さが、愛おしくてたまらない。
俺は彼女を引き寄せたい衝動を、学校という理性の壁でなんとか押し留め、その手を両手で包み込んだ。
「ああ。俺の彼女は、美咲だけだ。誰がなんと言おうと」
「……うん。信じてる」
美咲が、安堵の息を吐く。
二人でいれば、どんな噂も怖くない。そう思えた。
だが、俺たちはまだ知らなかった。
この噂が単なる勘違いで終わらず、俺たちの「秘密」を暴くための導火線になってしまうことを。
薄暗い校舎の窓から、冷ややかな視線が俺たちを見下ろしていることに、俺はまだ気づいていなかった。




