第48話 名前で呼べない場所
朝の教室は、いつもと変わらない賑やかさに包まれていた。
誰かの笑い声と、プリントを配る音。
大きく開け放たれた窓からは、昨日より少しだけ鋭くなった秋の風が流れ込み、カーテンを乱暴に揺らしている。
俺は自分の席に鞄を置きながら、ごく自然に隣の席へと視線を向けた。
そこには、もう美咲が座っていた。
熱心にノートにペンを走らせている。昨日の復習か、それとも予習か。
当たり前の光景。
けれど、昨日までの夏休みとは、決定的に何かが違う。
「おはよう――」
声をかけようとして、喉元まで出かかった名前を無理やり飲み込んだ。
『美咲』
その二文字を口にするだけで、俺たちの間に引かれた境界線が、音を立てて崩れてしまう気がしたから。
ここは、学校だ。
俺たちはまだ、ただの「クラスメイト」でいなきゃいけない。
「……おはよう、橘さん」
絞り出した声は、自分でも驚くほど硬く、よそよそしかった。
美咲が、弾かれたように顔を上げる。
一瞬だけ、その瞳に「どうして?」という戸惑いが浮かび、けれど彼女はすぐに――すべてを察したように、寂しげな微笑みを浮かべた。
「……おはよう、白石くん」
白石くん。
昨日、あんなに甘く俺の名前を呼んだ唇が、今は俺を遠ざけるための名前を紡いでいる。
俺たちは視線を逸らし、それぞれの机に向かった。
彼女が俺の意図を汲んでくれたことが、嬉しくて。
そして、その物分りの良さが、どうしようもなく胸に深く突き刺さった。
昼休み。喧騒に満ちた廊下で、美咲とすれ違った。
彼女は真琴と連れ立って、何か楽しそうに笑っている。
不意に視線が重なる。
ほんの一瞬。
けれど、俺たちにとっては永遠に近い時間。
美咲の淡い唇が、わずかに動きかけた。
いつものように、俺の名前を呼ぼうとして――けれど、彼女はそれを飲み込み、代わりに小さく会釈だけを返した。
俺も、クラスメイトに対するそれと同じ角度で、浅く会釈を返す。
真琴がすべてを見透かしたような目で俺たちを見ていたが、何も言わなかった。
ただ、すれ違う。
隣を通り過ぎる瞬間、風に乗って彼女の香りが鼻先を掠めた。
呼んではいけない。
今は、誰にも知られてはいけない。
わかっているのに、掌の中に残る彼女の熱が、今すぐその名前を叫べと急かしてくる。
放課後。
図書室へ向かう途中、階段の踊り場で美咲と鉢合わせた。
上がってくる彼女と、下りようとしていた俺。
そこには、奇跡のように誰もいなかった。
世界から音が消えたような、静寂。 美咲が立ち止まり、俺を見上げる。
「……悠真くん」
震えるような、小さな声。
たった四文字。けれど、その響きだけで、俺の胸の奥は痛いほどに熱くなった。
「……美咲」
ようやく、名前を呼べた。
けれど、この静かな場所でさえ、誰かの足音に怯えなければならない事実が、俺たちの関係が『禁忌』であることを突きつけてくる。
美咲が一段、階段を上がってきた。
手を伸ばせば、すぐに触れられる距離。
けれど俺は、ポケットの中で強く拳を握り、その衝動を抑え込んだ。
「……ねえ、悠真くん。学校では、やっぱり……」 言葉が、途中で途切れる。
彼女の瞳には、寂しさと、俺への気遣いが混ざり合っていた。
「うん。……わかってる。でも」
俺は一拍置き、美咲の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「学校の外では、ちゃんと恋人でいよう。名前も、感情も、外で全部使い切ろう。ここでは我慢する。その代わり――」
言葉を選ぼうとして、詰まった。
代わりの対価なんて、俺にはまだ用意できていない。
けれど、美咲はふわりと柔らかく微笑んだ。
「……うん。その代わり、外ではいっぱいいっぱい、私のこと呼んでね?」
美咲のいじらしい「おねだり」が、胸を締め付ける。
俺たちが選んだこの距離は、逃げじゃない。
二人で明日を歩くための、戦いなんだ。
階段の下から、誰かの賑やかな足音が近づいてきた。
その瞬間――俺は、反射的に一歩、美咲から距離を取っていた。
「あ……」 美咲の唇が微かに震え、その表情が、冬の陽だまりに影が落ちたように一瞬だけ曇る。
すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻ったけれど、その刹那の寂しさを、俺の瞳は残酷なほど鮮明に捉えていた。
足音の主は、他愛もない会話をしながら通り過ぎていく他クラスの生徒だった。
俺たちには目もくれず、嵐のように去っていく。
「……じゃあね、白石くん。また明日」
美咲が、クラスメイトに向ける『完璧な声』で言う。
「うん。……また明日」
俺も、それに応える。
彼女は階段を上がり、俺は下りる。
すれ違う。
ただ、それだけ。
背中越しに感じる彼女の気配が、今はひどく遠く感じられた。
夜。 自分の部屋で、重い気分を振り払うように教科書を広げていたとき、机の上のスマホが震えた。
画面を見ると、LINEの通知。
差出人は――同じクラスの女子。
顔と名前は一致するけれど、これまで挨拶程度しか交わしたことがない相手だ。
『白石くん、夜遅くにごめんね。ちょっと相談に乗ってもらえないかな?』
相談?
俺に?
不思議に思いながらも、画面をタップする。
『勉強とか進路のこと、誰に聞けばいいか迷ってて。白石くん、教え方上手そうだし、真面目だから……ダメかな?』
「……そういうことか」
お祭りや図書館で美咲に教えていた姿を、誰かが見ていたのかもしれない。
断る明確な理由も思い浮かばず、俺は短く返信を打った。
『いいよ。明日、放課後とかなら』
『本当!? ありがとう、助かる!✨』
可愛らしいスタンプが一つ。
俺はスマホを伏せ、再び数式に目を戻した。
ただの相談だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
やましいことなんて何一つないはずなのに――。
なぜか、胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感が消えない。
窓の外から忍び込む秋の夜風は、昨日より少しだけ冷たくて。
ベッドに横たわると、昼間の階段で見た、美咲のあの曇った表情が、暗闇の中に何度も浮かんでは消えた。




