第47話 二学期、隣の席の温度
「……嘘だろ」 二学期初日。
黒板に張り出された新しい座席表を見た瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。
『白石悠真』のすぐ右隣に並ぶ、『橘美咲』の四文字。
夏休み、あれほど特別な時間を過ごした彼女が、今日から毎日、俺のわずか数十センチ隣に座るのだ。
教室は、休み明けの浮ついた熱気に包まれている。
窓から差し込む光が、隣に座った美咲のさらさらとした髪を透かして、眩しいほどに輝かせていた。
俺は平静を装い、震える手で教科書を並べる。
けれど、すぐ隣に彼女がいる。
ただそれだけの事実が、教室の酸素をすべて奪っていくような錯覚に陥らせた。
「……悠真くん」
吐息のような、甘く低い声。
振り向くと、美咲が少しだけ上目遣いで、俺の反応を楽しむようにじっと見つめていた。
「ん? ……どうした」
「……数学のノート、見せてもらってもいいかな。少し確認したいところがあって」
「ああ、いいよ」
俺がノートを差し出す。
受け取ろうとする彼女の指先が、わざと、俺の指の背をゆっくりとなぞるように重ねられた。
――っ!!
不意に伝わる柔らかな熱。
俺が思わず指を跳ねさせると、美咲は「ふふっ」と声を殺して笑った。
確信犯だ……。
夏祭りを経て、彼女は俺をからかうすべを完璧に覚えてしまったらしい。
俺は赤くなった顔を隠すように視線を逸らし、周囲を盗み見る。
幸い、真琴や菜月も自分の会話に夢中で、この『机の上の密事』には気づいていない。
だが、本当の試練はそこからだった。
机の下。
彼女が少し足を組み替えるたび、制服のプリーツスカートが、俺のズボンをふわりとなでる。
薄い布地一枚を隔てた向こう側に、彼女の確かな体温がある。
動くたびに伝わってくる、微かな衣擦れの音と、震えるような感覚。
「……っ」
あまりの近さに、息を吸うタイミングさえ分からなくなる。
美咲はと言えば、平然とした顔でノートをめくってっている。
だが、その口元が微かに、満足げに緩んでいるのを俺は見逃さなかった。
隣の席の温度は、冷房の効いた教室の中で、そこだけ異常に熱を帯びていた。
授業が始まっても、教壇に立つ先生の声は、遠い海の鳴動のようにしか聞こえなかった。 隣の席から聞こえる、カリカリというペン先の心地よい音。
ふとした瞬間に届く、彼女の小さく柔らかな呼吸。
髪を耳にかけるたび、わずかに揺れる毛先と、そこからふわりと漂う甘い香り。
視覚、聴覚、嗅覚。
そのすべてが、隣の彼女を「特別」だと叫んでいる。
――ダメだ。集中しろ、俺。
自分に言い聞かせ、穴が開くほど黒板を直視する。
けれど、そんな俺の虚勢を見透かしたように、視界の端で美咲が動いた。
ふと横を向くと、美咲が頬杖をつき、とろけるような甘い眼差しで俺を見つめていた。
目が合う。
彼女は、図書館で教えた時よりもずっと大胆に、独占欲を滲ませた微笑みを浮かべた。
そして、自分のノートの端に、さらさらと文字を書いて俺に見せてくる。
『かっこいい悠真先生。二学期も、たっぷり可愛がってね?』
「……っ!?」
先生ではなく「悠真先生」という、図書館で言われた呼び名。
俺は心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねるのを感じ、慌てて前を向いた。
隣の席の温度は、冷房が効いた教室の中で、そこだけ異常な熱を帯びて陽炎が立ちそうなほどだった。
チャイムが鳴ると同時に、真琴と菜月が獲物を見つけた肉食動物の足取りでやってきた。
「ねえねえ白石くん、今の気分はどう? 顔、ゆでだこみたいだけど?」
真琴が俺の机に身を乗り出し、これ以上ないほどニヤニヤと笑う。
「……何がだよ。暑いだけだろ」
「へぇー、暑いんだ? 二人だけの世界があまりに熱すぎて?」
「……偶然隣になっただけだ。変なこと言うな」
必死にポーカーフェイスを保とうとするが、隣で美咲が「うふふ」と楽しそうに、わざとらしく俺の袖を指先でちょん、と突っついた。
その瞬間、菜月の鋭い視線が俺の耳元を射抜く。
「……隠せてない。耳、真っ赤。嘘、下手」
「……っ!」
俺が慌てて両手で耳を隠すと、三人は顔を見合わせて、まるで最高のエンターテインメントを見たかのように笑った。
「まあ、いいけどさ。私たちは味方だから。……でも白石くん、授業中にニヤけないように気をつけなよ?」
真琴が満足そうに席に戻り、菜月も「……お幸せに」と小さく呟いて去っていく。
親友たちにバレている気恥ずかしさはある。
けれど、彼女たちが温かく見守ってくれている事実に、俺の胸の奥は、先ほどとは違う心地よい熱で満たされていた。
放課後。 みんなが帰り支度を始め、賑やかだった教室が少しずつ静かになっていく。
「じゃあ、また明日」
「ああ、また」
挨拶を交わし、俺は鞄を持って立ち上がる。 美咲も同じタイミングで席を立った。 並んで教室を出て、誰もいなくなった渡り廊下を進む。
夕方の長い影が、二人の足元を繋いでいた。 周囲に誰もいないことを確認して、俺は美咲の方を向いた。
「美咲」
「ん?」
俺は自分でも驚くほど自然に、彼女の手を握った。
図書館のあの時と同じ、柔らかくて温かい感当。
でも、学校という場所が、その接触をいけないことのように感じさせて、胸の奥がチリチリと焼ける。
美咲は少しだけ驚いた顔をしたあと、嬉しそうに俺の手を握り返してくれた。
「……学校では、あんまりこういうの、ダメだよな」
俺が少し照れながら手を離すと、美咲は名残惜しそうに指先を絡めてから、頷いた。
「……うん。でも、隣に悠真くんがいるだけで、私、頑張れる気がする」
彼女の真っ直ぐな言葉に、俺の胸はいっぱいになった。
「じゃあ、また明日。学校で」
「うん。……また明日ね、悠真くん」
校門の前。
小さく手を振って歩いていく美咲の背中を、俺はいつまでも、いつまでも見送っていた。
二学期。
隣の席。 これから始まる毎日が、楽しみで仕方がなかった。
だが、俺は気づいていなかった。
教室の後方。
そこに座ったまま、凍りついたような目で俺たちの背中を見つめる『視線』があったことに。
「……今、手……握ったよね?」
声は、誰にも届かなかった。 けれど、平穏だった俺たちの世界に、確かな『亀裂』が入った瞬間だった。




