第45話 夏祭り、君と二人で
駅前。
夕暮れの空が群青色へと溶け出し、街灯が一つ、また一つと灯り始めている。
遠くから風に乗って届く、祭囃子のリズムと太鼓の音。
それが、俺の心拍数をさらに跳ね上げた。
約束の十分前。
俺は少し早めに着いて、高鳴る鼓動を落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返していた。 行き交う人々、華やかな浴衣姿の列。
その中に――彼女を見つけた。
「……悠真くん」
名前を呼ばれて、心臓が大きく揺れた。
振り向いた先に、彼女がいた。
夕闇の街に、そこだけ光が差したように、美咲が立っていた。
淡い水色に、控えめな花柄が散る浴衣。
いつもは下ろしている髪をアップにまとめて、白く細い首筋が、夕闇の中で眩しいほどに露わになっている。
「…………っ」
言葉が、出なかった。
ただの「綺麗」とか「可愛い」なんて言葉じゃ、今の彼女を形容するにはあまりにも足りなすぎる。
思考が真っ白になって、ただ、彼女を見つめることしかできない。
「……あの、そんなに黙り込まれると……その、変かな?」
美咲が、浴衣の裾を少しだけつまみ、不安そうに上目遣いで俺を見た。
その仕草があまりにもいじらしくて、俺は弾かれたように首を振った。
「変なわけないよ。……びっくりするくらい綺麗だ」
「そう……?」
「ああ。……正直、見惚れて動けなくなった」
本音を真っ直ぐに伝えると、美咲の頬が一気に桜色に染まった。
「……ありがとう。悠真くんにそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」
小さな、けれど幸せの熱を帯びた声。
俺たちは照れくささを隠すように、どちらからともなく歩き出した。
その時。
「……ねえ、悠真くん」
美咲が立ち止まり、俺の袖を少しだけ引いた。
「ん?」
昨夜の、あの約束。
彼女は少し震える手を差し出し、夜風に消えてしまいそうなほど小さな声で呟いた。
「……迷子になったら、嫌だから。……約束、覚えてる?」
その瞳は、逃げ出したいほどの恥ずかしさと、それ以上の決意に満ちていた。
俺は一瞬だけ立ち尽くし、それから、彼女のその小さな手を、包み込むように優しく、けれど力強く握りしめた。
温かくて、柔らかい。
手のひらから、彼女の鼓動まで伝わってきそうなほど、生々しい熱。
「……じゃあ、ずっと離さないように、繋いでるよ」
俺がそう言うと、美咲は花が咲いたような、最高に幸せそうな笑顔を見せた。
「うん。……ずっと、だよ?」
繋いだ手の温もりを確かめながら、俺たちは祭りの会場へと向かう。
世界が、祭りの明かりよりもずっと眩しく輝き始めていた。
屋台が、色とりどりの提灯に照らされて並んでいる。
りんご飴の甘い匂い、ソースの焦げる香ばしさ。
五感を揺さぶる祭りの夜を、俺たちは肩を並べて歩いた。
「ねえ、悠真くん。あれ、食べたいな」
美咲が指差したのは、真っ赤に輝くりんご飴。
「いいよ。二つ買おうか」
買い求めた飴を手に、少しだけ喧騒を外れて歩く。
美咲が小さく口を開け、飴を一口齧る。
ツヤツヤした飴が、彼女の薄桃色の唇をさらに艶やかに彩り、視線がどうしてもそこへ吸い寄せられてしまう。
「美味しい……。悠真くんも、食べてみる?」
「えっ、いいの?」
「うん。……はい」
美咲が、自分が齧ったのと反対側を差し出す。
俺は躊躇しながらも、その真っ赤な実に歯を立てた。
「……甘いな。すごく美味しい」
「でしょ? ……ふふ、間接キスになっちゃったね」
美咲が悪戯っぽく笑って、俺の顔を覗き込む。
火照った頬は、きっと夏の暑さのせいだけじゃない。
周りを見れば、楽しそうに密着して歩くカップルたち。
――俺たちも、あの輪の中にいるんだな。
そう自覚するたび、繋いでいる手のひらがじりじりと熱を持った。
祭りの熱気が最高潮に達し、人混みはさらに激しさを増していく。
向こうからやってくる集団を避けるため、俺は咄嗟に美咲の肩を抱き寄せ、自分の胸元に引き寄せた。
「……っ、ごめん。大丈夫か?」
「……うん。大丈夫」
腕の中に収まった美咲の体は、驚くほど細くて柔らかい。
浴衣越しに伝わってくる、彼女の柔らかな曲線と、ドクンドクンと速まる心拍。
ふわりと漂う、うなじから立ち上がる石鹸のような清潔な香りと、少しだけ混じる体温の匂い。
鼻先が彼女の髪に触れ、俺の理性は一気に悲鳴を上げた。
「……悠真くん、近いよ」
「あ、ああ。……ごめん」
「ううん。……もう少し、このままでいい?」
美咲が俺のシャツの胸元をぎゅっと掴み、俺の胸に顔を埋める。
人混みを盾にして、俺たちは数秒間、お互いの体温を確かめ合うように密着した。
……ダメだ。このままじゃ、抑えがきかなくなる。
喧騒を離れ、神社の裏手にある静かな場所に出た。
遠くから聞こえる祭囃子が、どこか別世界の出来事のように遠い。
ぼんやりとした提灯の光が、美咲の白い肌を艶かしく照らしている。
「……ねえ、悠真くん」
「ん?」
「恋人になってから、全部が違う世界みたい。……今、私、人生で一番幸せだよ」
美咲が潤んだ瞳で俺を見上げる。
その潤んだ唇、乱れた呼吸、そして浴衣の合わせ目から覗く、白い鎖骨。
俺の頭の中は、今すぐ彼女を抱きしめて、その唇を塞ぎたいという衝動でいっぱいになった。
「……俺もだよ。美咲。……幸せすぎて、怖いぐらいだ」
俺は震える手で、彼女の頬を優しく撫で、そのままアップにされた髪の隙間、うなじの辺りに指を這わせた。
「……ひゃっ」
美咲が小さな吐息を漏らし、俺の肩に力なく寄りかかる。
耳元で重なる二人の鼓動。
夜の闇が、俺たちの理性をじわじわと削っていく。
「……ありがと。悠真くん」
消え入りそうな声で囁く美咲。
俺は彼女の頭を優しく撫で、その温もりを心臓に刻みつけた。
帰り道。
繋いだ手は、一度も離さなかった。
祭りの喧騒が遠ざかるにつれ、祭りの終わりと別れの時間が近づいてくる。
「……楽しかったね」
「ああ。また、絶対に来よう。二人で」
「うん。……約束だよ?」
駅の改札前。
繋いでいた手を離す瞬間、指先がひりつくような寂しさが襲った。
「じゃあ……またね。悠真くん」
美咲が小さく手を振り、階段を上がっていく。
俺はその場に立ち尽くし、夜空を見上げた。
星が降るような夜。
掌に残った彼女の柔らかさと、鼻先に残る甘い香り。
これまでの地味で灰色の日常が、たった一夜で極彩色に塗り替えられた。
――ああ、これが「恋」なんだ。
夏は、まだ終わらない。
そして、俺たちの物語は、ここからもっと熱くなっていく。
俺は次の約束を胸に、夜の街を歩き出した。
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