第43話 恋人未満、じゃなくなった日常(橘美咲視点)
美咲の部屋。
冷房が心地よく効いた室内で、私たちは円を描くように床に座っていた。
テーブルには、溶けかかったバニラアイスのグラスと、半分開いたポテトチップスの袋。
扇風機が「カチッ、カチッ」と一定のリズムで首を振る音が、午後の静寂にリズムを刻んでいる。
「はぁー、生き返る。夏休みの午後はこうでなくっちゃね。外は地獄だよ、地獄」
真琴がアイスを大きな一口で放り込み、幸せそうに息を吐いた。
「そうだね。少し歩くだけで溶けちゃいそう」
私もグラスを両手で包み、冷たい麦茶を喉に流し込む。
菜月は相変わらず静かに、ポテトチップスを「サクッ」といい音を立てて食べている。
なんてことない、いつもの夏休みの風景。
けれど、真琴がアイスのスプーンを置いて、ニヤリと唇の端を上げた瞬間、部屋の温度が二度ほど上がった気がした。
「ねえ、美咲。……単刀直入に聞くけどさ」
「な、なに……?」
「登校日のときさー、自分たちでは隠せてると思ってた?」
「えっ!?」
心臓が跳ねた。
「な、なにが……?」
「とぼけないの。あの空気感、隠せるわけないでしょ。二人で並んで歩いてなくても、視線とか、醸し出してる『熱』がもう、お熱いんですもの」
真琴が身を乗り出し、私の目をじっと覗き込む。
「で? 結局のところさ、もう言い訳なしだよ。……『付き合った』んだよね?」
あまりに直球な質問に、顔が一気に熱くなった。
返事をしようとしても、喉の奥が震えて言葉にならない。
「ほら、黙り込んじゃって! 顔真っ赤だよ、美咲!」
「……っ、う、うるさいなぁ……」
私は逃げるように冷たいグラスで頬を冷やした。
けれど、もう誤魔化すことはできない。
大好きな親友たちに、嘘をつくなんてできなかった。
「……うん。……付き合ってる、よ。正式に」
蚊の鳴くような、でも確かな肯定。その瞬間――。
「やったぁぁぁ!!!」
真琴が床を叩いて立ち上がり、ガッツポーズを決めた。
「ほら見たことか! あの花火大会の帰りから絶対におかしいと思ってたんだよ。私の恋バナ探知機に狂いはなかったわ!」
「……もう、声が大きいってば。恥ずかしい……」
私がクッションに顔を伏せると、菜月が静かに、でも確かな熱を持って微笑んだ。
「……よかったね、美咲。……今の顔、今までのどれよりも幸せそう」
「菜月……」
「……愛されてる。白石くん、本気なんだね」
菜月の言葉に、胸の奥がじんわりと甘い痛みで満たされる。
私はただ、黙って何度も頷くことしかできなかった。
「で! 詳細は? いつ? どっちから? どこで!? まさか……もう『済ませて』ないわよね?」
真琴がニヤニヤしながら、私の肩を小突く。
「……済ませるって、なにを……」
「とぼけないの! キスとか、それ以上とか! 男をあれだけ鉄壁のガードで寄せ付けなかった美咲が、ついにお城の門を開けたわけじゃない? どーなのよ、そのへん!」
「ちょっ、真琴! 変なこと言わないでよ!」
私は真っ赤になって抗議した。 確かに、中学の頃から色んな人に告白されたけれど、誰一人として心に響かなかった。
告白されるたびに、「私の何を知っているの?」と冷めた気持ちになって、男の人をどこか遠い存在だと思っていた。
でも、悠真くんだけは違った。
私の外見じゃなくて、私の心に、土足ではなく丁寧に、優しく踏み込んでくれた。
「……キスなんて、まだだよ。……っていうか、まだそんな、想像もできないし」
「あらー、じゃあまだ清純派カップルなわけね。でもさ、夏祭りだよ? 浴衣だよ? 二人きりだよ? ……それくらい、覚悟しときなさいよ。男の子なんだから、白石くんも絶対ムラムラ……いや、ドキドキしてるはずなんだから!」
真琴の悪ノリに、菜月が冷静にツッコミを入れる。
「……真琴、下品。……でも、雰囲気は大事。美咲から仕掛けるのも、アリ」
「なっ、菜月まで!?」
「だって、美咲。……白石くんは、自分からガツガツ行くタイプじゃないでしょ。美咲がリードしてあげないと、あの子、緊張で石になっちゃうよ?」
菜月の指摘は、あまりにも的を射ていた。 悠真くんは優しいけれど、奥手だ。
私への気遣いが凄すぎて、自分から踏み込むのをためらっている節がある。
「……そうだよね。悠真くん、私を大切にしてくれすぎて、たまに手が震えてるもん」 「でしょ? なら、来週の夏祭りは美咲の『勝負』だよ!」
真琴が再び拳を握る。
「浴衣を着て、最高に可愛い自分を見せて、……自分から、手を繋いじゃうの! 隙があれば、ちょっとだけ甘えてみるとかさ」
「自分から、手を繋ぐ……」
美咲の脳裏に、浴衣姿の悠真くんが浮かぶ。
いつも眼鏡の奥で困ったように笑う彼。その大きな手を、今度は私の意志で、ぎゅっと握る。
「……やりたい。私、悠真くんと、もっと近くなりたい」
ポロッとこぼれた本音に、真琴と菜月が顔を見合わせ、満足げに微笑んだ。
「その意気よ! よし、明日は朝から浴衣の買い出しね! 白石くんをノックアウトする最強の一枚を選び抜くわよ!」
「……うん。よろしくね。二人とも」
胸の奥が、温かい期待と少しの不安、そして大きな勇気でいっぱいになる。
夏祭り。
大好きな親友たちに背中を押されて、私は「彼女」として、彼の隣に堂々と立ちたい。
「あー、楽しみ! 美咲がどんどん可愛くなっていくのを見るの、最高に楽しいわ」
「……もう、真琴。からかわないで」
「からかってないって! 本気よ、本気!」
女子が三人寄れば、恋バナは止まらない。
エアコンの風も、セミの声も、すべてが私たちの味方をしているような気がした。
私の初めての恋は、夏休みの熱気の中で、いっそう色濃く、鮮やかに咲こうとしていた。
夜。
真琴と菜月が嵐のように去っていった後、部屋には耳が痛くなるほどの静寂が戻っていた。
私は着替えるのももどかしく、そのままベッドに倒れ込む。
シーツから伝わるひんやりとした感触が、恋バナで火照った体をゆっくりと冷やしていく。
枕元のスマホを手に取り、画面を点ける。
悠真くんからの連絡は、まだない。
「……ふふ、何してるのかな」
指先で、彼とのトーク画面をなぞる。
今までなら「まだかな」と不安になっていたはずの時間が、今は不思議と心地よかった。
彼もきっと今、私と同じように、今日あったことや、来週の祭りのことを考えて、一人でドキドキしているんじゃないか。
そう思えるだけで、胸の奥が温かいミルクを注いだみたいに満たされていく。
天井を見つめながら、真琴たちの言葉を思い出す。
『男を寄せ付けなかった美咲が、ついにお城の門を開けたわけじゃない?』
『美咲がリードしてあげないと、あの子、緊張で石になっちゃうよ?』
……ひどい言いようだけど、きっと当たってる。
悠真くんはいつだって、私のことを壊れ物を扱うみたいに大切に、大切にしてくれるから。
「……待ってるだけじゃ、ダメだよね」
私はスマホを胸元に抱きしめて、そっと目を閉じた。
目を閉じれば、眼鏡の奥で困ったように笑う彼の顔が、鮮やかに浮かんでくる。
来週の夏祭り。
私は、ただ守られるだけの「お姫様」でおしまいはしない。
彼を驚かせて、困らせて……そして、もっともっと、私なしじゃいられないくらいにさせたい。
「待っててね、悠真くん」
熱を帯びた夜風が、カーテンを優しく揺らしていく。
夏は、まだ中盤。
でも、私の中では――「女の子」としての本当の物語が、今この瞬間から始まろうとしていた。




