第42話 夏休みの学校は、少しだけ特別
夏休み、登校日。
朝の教室は、いつもの喧騒を剥ぎ取ったようにひっそりとしていた。
出席番号順の半分も埋まっていない座席。
全開になった窓から、暴力的なまでのセミの声がなだれ込んでくる。
同じ制服を着ているのに、誰もがどこか「仮の姿」のような、不思議な非日常感が漂っていた。
俺は自分の席に座り、まだ熱を持ったままのスマホをポケットに突っ込んだ。
数日前までと同じ、使い古された机と椅子。
なのに――窓から差し込む光さえ、今の俺にはキラキラと輝いて見える。
「おっはよー。白石く〜ん、生きてる?」
不意に頭の上から降ってきたのは、桜井さんの屈託のない声だ。
隣には、相変わらず無表情ながらもどこか楽しそうな中村さん。
「おはよう。……生きてるよ。暑いだけだよ」
「あはは、確かにね。ねえ菜月、今日の白石くん、なんか『白く』ない?」
「……うん。発光してる」
「何だよそれ」
苦笑いしながら俺が廊下の方へ視線を流した、その時。
「…………っ」
教室の入り口に、美咲が立っていた。
一瞬、視線が真っ向からぶつかる。
これまでは「クラスで一番の美少女」を遠巻きに眺めていた。
けれど今は――昨日の夜、電話で聞いた彼女の甘い声を、繋いだ手のひらの柔らかさを、俺の脳裏が勝手に再生し始める。
「……っ、おはよう。白石くん」
美咲が、ほんの少しだけ頬を染め、いたずらっぽく、でもどこか緊張した様子で挨拶をしてきた。
「……ああ、おはよう。橘さん」
僕も努めて冷静に、いつもの「地味な隠キャの白石」として答える。
けれど、彼女が俺の横を通り抜ける瞬間、ふわりと祭りの夜と同じ、あの甘い香りが鼻先をくすぐった。
距離が、近い。
触れそうで触れない。
けれど、お互いの体温が伝わってきそうなほど、確実に「前」とは違う重力が俺たちの間に働いている。
「…………」
視線を戻すと、桜井さんが目を皿のようにして俺を凝視していた。
そして、ニヤリと唇の端を吊り上げる。
「……あー、なるほどね。完全に『理解』したわ」
「……何がだよ」
俺は平静を装って、カバンの中を漁るふりをする。
「別にー? ただ、今日の教室、クーラー効いてるはずなのに、ここだけやけに『熱い』なーって思っただけ」
茶化すような桜井さんの隣で、中村さんが静かに、けれど逃がさないように目を細めた。
「……空気、変わったね。白石くんと、美咲の」
「……気のせいだろ」
「そう? ……隠せてると思ってるのは……、まあいいけどね」
中村さんが小さく、けれど確信を持って笑った。
その目は「おめでとう」と言っているようにも、そして「邪魔はしないよ」と言っているようにも見えた。
――完全に、察せられている。
けれど、彼女たちはそれ以上踏み込んでこない。
それが桜井さんと中村さんなりの、最高の「祝福」なんだと感じて、俺は少しだけ眼鏡の奥で目元を緩めた。
HR。
教壇で担任が何やら喋っているが、その声は右から左へと抜けていく。
俺の意識は、どうしても数メートル先に吸い寄せられてしまう。
斜め前の、窓際の席。
入り込む風に、彼女の髪がふわっと柔らかく揺れている。
ふとした拍子に、美咲がこちらを振り返った。
一瞬、視線が重なる。
彼女の唇が、自分にしか分からないくらい微かに、綻ぶように笑った。
すぐに前を向く彼女。
俺も慌てて手元のノートに視線を落とす。
ドクン、と心臓が跳ねる。 これまでは「バレないように」と怯えていた視線が、今は「確かめ合うため」の熱に変わっている。
――ああ。これが、恋人なんだ。
こんな小さな秘密の共有だけで、世界がこんなに色鮮やかに見えるなんて。
俺は少しだけ眼鏡を直した。
まだレンズの向こうに隠れているけれど、その檻はもう、以前ほど冷たくはなかった。
HRが終わると、静まり返っていた教室が急に騒がしくなった。
ガタガタと椅子を引く音、友達を呼ぶ声。
でも、私の意識は自然と、斜め後ろに座っている「彼」の気配に集中してしまう。
「じゃ、私たちも帰ろっか、美咲」
真琴がいつもの明るい調子で声をかけてきた。
「うん。……そうだね」
心臓が少しだけ、落ち着かなくなる。
本当は、彼と――悠真くんと帰りたいけれど、それを自分から言い出すのは、まだ少しだけ恥ずかしくて。
「美咲も一緒に――」
真琴が私を誘おうとして、ふと、言葉を止めた。
……え?
顔を上げると、真琴が「獲物を見つけた猫」みたいなニヤニヤ顔で私を覗き込んでいる。
そして、逃げる暇も与えずに私の耳元に顔を寄せてきた。
「……あ、ごめん。ひょっとして『白石くん』と、なにか用事があったりする?」 「えっ!? い、い、いや……別にそんな、こと……っ」
あまりにも直球の追求に、声が裏返ってしまった。
隠さなきゃ、と思うのに、頬がどんどん熱くなっていくのが自分でもわかる。
あんなに視線を交わしていたんだもの。
鋭い真琴に気づかれないはずがなかったんだ。
視線を泳がせていると、悠真くんと目が合った。
彼は彼で、必死に笑うのを堪えているみたい。
……もう、助けてよ悠真くん!
「いいよいいよ、察したから! 気にしないでー」
「……お幸せに」
菜月がボソッと、でも確かな重みのある言葉を残して、二人は嵐のように教室を出て行ってしまった。
まるで、私たちにこの空間を「譲る」みたいに。
嵐が去った後の教室。
さっきまであんなに静かだった場所が、急に広く感じられて、二人きりの空気が肌をくすぐる。
……どうしよう、顔がまだ熱い。
「……行こうか」
悠真くんが、少し照れくさそうに、でも優しく声をかけてくれた。
「……うん。そうだね、悠真くん」
彼の名前を呼ぶたび、胸の奥がキュッとなる。
学校での呼び方は変えていないけれど、二人きりになった瞬間のこの特別な「呼び名」。
誰もいない廊下を歩きながら、私は心の中で、親友たちの優しさと、隣にいる彼の温もりに、何度も「ありがとう」と繰り返していた。
校門を抜け、人通りのない角で私たちは足を止めた。
いつもならそのまま駅へと急ぐけれど、今日は一歩踏み出すのが、ほんの少しだけ名残惜しい。
「……ねえ、悠真くん」
「ん?」
「今日……学校、すごく楽しかった。いつもと同じ場所なのに、なんだか全然違う場所みたいで」
私が照れくささを隠すように笑って言うと、悠真くんも柔らかく目を細めた。
「……ああ。俺も、同じこと思ってた。見慣れた景色なのに、全部がキラキラして見えたよ」
「……ふふ、私も。一緒だね」
私は、小さく頷いた。
お互いの「好き」が通じ合って、秘密を共有して。
それだけで、聞き慣れたセミの声も、アスファルトの陽炎も、すべてが私たちを祝福しているような錯覚に陥る。
「じゃあ、またな」
「うん。また……帰ったら、すぐ連絡するね」
小さく手を振りながら、私はゆっくりと歩き出す。
振り返ると、悠真くんも手を振り返してくれていた。 その背中が少しずつ遠ざかっていく。
見上げた空は、どこまでも高く、どこまでも深い青。
巨大な入道雲が、私たちのこれからの時間を象徴するように力強く湧き上がっている。
夏休みの学校は、確かに少しだけ特別だった。
重い過去の扉を閉め、美咲がその鍵を一緒に持ってくれたあとに見つけた、この穏やかで眩しい日常。
――ああ。これが、「幸せ」っていうものなんだろうな。
駅へと続く道、俺は胸の中で、指折り数えて次の約束を待つ。
次は、夏祭り。 今度は「白石くん」と「橘さん」としてじゃなく。
誰にも気兼ねせず、二人きりで歩く、特別な夜。
夏は、まだ始まったばかりだ。
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