第36話 夏の途中で、立ち止まる その2
<橘美咲視点>
通話終了のボタンを押して、私は熱を帯びたスマホを胸元に抱き締めた。
誰もいない部屋。
窓の外には、どこまでも高い青空と、大きな入道雲。
あまりに鮮やかな夏が広がっているのに、部屋の中は、電話を切った後の静寂が寂しいくらいに満ちている。
たった数分の会話。
特に何かを約束したわけでもないのに、耳元にはまだ、白石くんの少し低い声が残っている気がする。
――どうしてだろう。
白石くんと話すと、世界が全部守られているみたいで、すごく安心する。
なのに、それと同じくらい、胸の奥がざわついて不安にもなる。
このまま、何も変わらないまま。
この「心地いい距離」を壊さないように笑っているうちに、夏が終わってしまったら。
そう思うと、冷房の風が当たったみたいに、肌が粟立った。
「……待ってるのかな、私」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと独り言が漏れた。
自分でも驚くほど、素直な本音。
――そう、私は待っているんだ。
白石くんが、あの日みたいに私のことを見つめてくれるのを。
名前を呼んで、その先の言葉を言ってくれるのを。
でも、それを認めてしまうのが、たまらなく怖い。
もし、私の勘違いだったら。
彼にとって、私はただの「暇つぶしの相手」だったら。
私はもう一度、スマホを手に取った。
指が勝手に、彼とのトーク画面をスクロールする。
お泊まり会のあとに送ったメッセージ、それに返ってきた短い返事。
何か送ろうとして――指が止まる。
「会いたい」なんて、たった四文字。
打つのは簡単なのに、今の私には、地球を動かすくらい難しいことに思えた。
「……今じゃない、よね」
スマホを伏せて、私はベッドに顔を埋めた。
シーツから、昨日まで使っていた日焼け止めの匂いが微かにした。
夏は、始まったばかり。
でも、私の心の中の温度計は、もうとっくに限界を超えそうになっていた。
<白石悠真視点>
夕方。
西日が部屋の壁をオレンジ色に焼き尽くそうとしていた頃、スマホが震えた。
桜井さんからのメッセージだ。
『ねえ、花火大会の日程、ちゃんと確認した?』
『まだです』
『来週の土曜だよ。忘れないでね』
『了解』
『もちろん、いつものメンバーで行くからね!』
桜井さんは、きっと全部見抜いている。
僕が自分の臆病さに足踏みしていることも、橘さんが答えのない問いを抱えて待っていることも。
余計なアドバイスはせず、ただ「場所」だけを用意して、静かに背中を蹴り飛ばしてくれているんだ。
『了解。また連絡します』
トーク画面を閉じ、熱を持ったスマホを机に置く。
――花火大会。
あの日。
大きな音が夜空に響き、光がすべてを塗り替えるその瞬間に。
もう、逃げることはできない。
……いや、逃げたくなんてない。
僕は、窓の外に目を向けた。
空は、まるで燃え盛るような真っ赤な夕焼けに染まっている。
夏は、まだ始まったばかりだ。
なのに、今の僕には「この夏が終わってしまうこと」の方が、何よりも怖かった。
隣にいられるだけで満足していた。
この曖昧で、甘くて、少しだけ苦い距離が心地よかった。
でも、このままじゃダメなんだ。
彼女の服の裾を掴んだ指先も。
僕の腕に触れた柔らかな熱も。
すべてを「思い出」という過去の箱に閉じ込める前に、確かな「名前」をつけなきゃいけない。
「……あの日に、全部言おう」
誰に誓うでもなく、独り言がこぼれた。 夕闇が迫る部屋の中で、僕の心臓だけが、決意の重みを刻むように強く、速く打ち続けていた。
夜。
静まり返った部屋に、バイブレーションの音が低く響いた。
画面に浮かぶのは、今日二度目となる彼女の名前。
『……もしもし』
『あ、ごめんね。こんな遅い時間に……。起きてた?』
受話器から聞こえる声は、昼間よりも少しだけしっとりと、夜の空気を帯びていた。
『大丈夫。……寝ようと思ってたところ』
『……あのね。真琴から聞いたんだけど……花火大会、行くって、ほんと?』
『……ああ。行くよ』
『そっか……』
安堵したような、小さな吐息が伝わってくる。
『じゃあ、一緒に――』
そこで、言葉が止まった。 何かを言いかけて、でもそれを飲み込む、わずかな沈黙。
『……みんなで、行こうね。楽しみに、してるから』
『……ああ。俺もだ』
本当は、彼女が何を言いたかったのか、今の俺には痛いほどわかる。
でも今は、その答えを電話越しに受け取るわけにはいかなかった。
通話が切れ、部屋に本当の静寂が戻る。
俺はそのまま、暗闇の中でベッドに横たわった。
天井を見つめると、窓から差し込む街灯の光が、細い帯になって部屋を横切っている。
――花火大会。
運命のあの日が、もう、すぐそこまで来ている。
これまでは、傷つくのが怖くて、今の心地よさを手放すのが惜しくて、ずっと「友達」という安全圏に逃げていた。
でも、もう逃げない。
自分の弱さにも。
彼女の真っ直ぐな想いにも。
この胸の中で、ずっとくすぶり続けている名もなき熱に。
確かな「名前」がつく日が来るのだとしたら――。
それはきっと。
夜空に、一瞬だけ大輪の花が咲く、あの夜だ。
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