第35話 夏の途中で、立ち止まる その1
夏休み、初日。
朝から、狂ったように鳴き続けるセミの声が、部屋の空気を震わせている。
重いカーテンを勢いよく開けると、真っ白な日差しが容赦なく飛び込んできた。
暑い。
でも、肌を焼くようなこの熱が、今はどこか心地よかった。
学校がない。
制服を着る必要もない。
決められた時間割も、ここにはない。
――夏が、本格的に始まったんだ。
俺はベッドの端に腰を下ろしたまま、まだ熱を持っていないスマホを手に取った。
画面に浮かぶのは、橘さんとのトーク画面。
最後の一往復は、昨日の夜。
『プールの写真、見返したらみんな楽しそうだったね』
『そうだね』
……それだけ。
素っ気ない自分の返信に、今さらながら溜息が出る。
俺は――何か、気の利いた言葉を送ろうとして、指を止めた。
「今日は何してる?」
なんて、彼氏でもない俺が聞くのは図々しいだろうか。
それとも、「また会いたい」とストレートに伝えるべきか。
それこそないな…。
一度書きかけた文字を消去する。
何を送ればいいのか、正解が分からない。
でも、スマホを伏せても、瞼の裏にはあの日の光景が焼き付いている。
パラソルの下で、俺を真っ直ぐに見つめていた彼女の瞳。
プールの中で、俺の腕に触れた、あの柔らかな熱。
一度触れてしまったから。 一度、その「特別」を知ってしまったから。
「……会いたいな」
無意識に漏れた独り言が、冷房の効いていない部屋に虚しく響いた。
制服という鎧がない今の俺は、自分で思う以上に、彼女の存在に無防備になっている。
ただのクラスメイトに戻るなんて、もう無理だ。
あの日、彼女の裾を掴ませたまま、ゆっくり歩いたあの距離よりも。
もっと、もっと近くへ行きたい。
俺はもう一度スマホを握りしめ、意を決して画面を叩いた。 夏休みが終わるまで、待てるはずがなかった。
昼過ぎ。
じりじりと部屋の温度が上がり始めた頃、スマホが震えた。
画面に躍る『橘美咲』の文字。心臓が跳ね、慌てて体勢を整えてからボタンを押す。
『……もしもし』
『あっ、白石くん。……お疲れさま』
耳元で、少しだけ緊張したような、でも柔らかい彼女の声が響く。
『どうした? 何かあったか?』
『ううん、特に用事があるわけじゃないんだけど……。ちょっと、暇だなって思って』
嘘だ。
暇なだけなら、真琴さんたちに連絡すればいいはずだ。
でも、それを指摘する勇気は俺にもない。
『……俺も、ちょうど暇してたところだ』
『ふふ、そっか。……一緒だね』
橘さんが少しだけ笑った。
それだけで、部屋の蒸し暑さが少しだけ和らぐ気がした。
会話が途切れる。
でも、お互いに電話を切る気配はない。
スマホから伝わる微かなノイズさえ、彼女がそこにいる証明のようで愛おしい。
『……ねえ。夏休み、始まったばかりだけど、長いね』
『そうだな』
『白石くん、何か予定とか……あるの?』
探るような、控えめな問いかけ。
俺の脳裏には、カレンダーの「あの日」に引かれた赤い丸が浮かんだ。
地元の花火大会。
――誘いたい。
「一緒に行かないか」と、その一言が喉まで出かかっているのに、情けないほど言葉が出てこない。
断られたら、という恐怖よりも、今のこの心地いい関係が壊れてしまうのが怖かった。
『……まだ、何も決まってない』
ついてしまった、臆病な嘘。
『そっか……。私も、まだ何も決まってないんだ』
電話越しに、遠くで鳴くセミの声が重なり合う。
彼女の部屋の窓も、今、俺と同じように開いているんだろうか。
同じ空気を吸って、同じ「何か」を待っているんだろうか。
『……じゃあ、また。……ごめんね、変な時間にかけちゃって』
『いや、……嬉しかった。……またな』
『……うん。またね』
通話終了の無機質な音が響く。
俺は――熱を帯びたスマホを握りしめたまま、仰向けにベッドへ倒れ込んだ。
「……何やってるんだ、俺は」
天井で回るシーリングファンを見つめながら、独り言が漏れる。
「暇だ」なんて、彼女なりの精一杯のサインだったかもしれないのに。
「何も決まってない」なんて、誘ってほしいという合図だったかもしれないのに。
手の中に残ったスマホの熱が、自分の臆病さを責めているようで、俺はしばらくの間、顔を枕に沈めた。
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