第37話 夜空に咲く その1
空の青さが深まり、藍色に変わり始める。
会場に近づくにつれて、遠くからお囃子の音と、醤油が焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。
人の波。
高揚した笑い声。
カラン、コロンとアスファルトを叩く下駄の音。
「あー! 白石く〜ん、こっちこっち!」
人混みの向こうで、桜井さんが大きく手を振っているのが見えた。
その隣に中村さん、そして――。
「…………」
雑踏の音が、一瞬で遠のいた気がした。
そこに、彼女がいた。
淡い桃色の生地に、鮮やかな花柄が散りばめられた浴衣姿。
いつもは下ろしている髪が綺麗にアップにされ、白く華奢なうなじが、提灯の明かりに照らされて露わになっている。
綺麗だ。
そんなありふれた言葉じゃ足りないくらい、息が止まった。
「……白石くん? どうしたの、そんなに固まって」
橘さんが、不思議そうに小首を傾げて覗き込んできた。
いつもより少し濃いめのメイクが、彼女を急に大人びて見せる。
「……い、いや。何でもない。……その、似合ってる、なと思って」
「……えっ」
「あ、いや! ……とりあえず、行こうか」
俺は自分の顔が一気に熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らした。
橘さんも「……ありがと」と蚊の鳴くような声で答えて、扇子で口元を隠している。
「はいはい、見せつけないのー。ほら、屋台回るよ!」
桜井さんがニヤニヤしながら俺の背中を叩き、四人で歩き出した。
金魚すくい、焼きそば、真っ赤なりんご飴。
祭りの熱気が肌にまとわりつく。
桜井さんと中村さんが先頭で「あれ食べたい!」と騒いでいる後ろを、俺と橘さんが少し遅れて歩く。
慣れない下駄のせいか、橘さんの歩幅はいつもより小さい。
それに合わせるように、俺もゆっくりと歩く。
「……人、すごいね」
「そうだな。はぐれそうだ」
「……うん」
橘さんが、人波に押されるようにして、すっと俺の方に寄った。
ふわりと、甘い香りが鼻先をかすめる。
シャンプーの匂いじゃない、整髪料と、彼女自身の匂い。
距離が、近い。
歩くたびに、俺の腕と彼女の浴衣の袖が、触れるか触れないかの距離で揺れている。
「……はぐれないように、しないとね」
橘さんがそう呟いて、俺の浴衣の袖を、指先でちょこんと掴んだ。
布越しなのに、そこから電流が走ったみたいに熱い。
「……ああ。絶対、はぐれないようにする」
俺は前を向いたまま、短く答えた。
周囲の喧騒も、遠くで鳴り始めた花火の合図も、今の俺には届かない。
耳の奥で響いているのは、痛いくらいに速く打つ、自分の心臓の音だけだ。
――今日だ。 この熱が冷めないうちに。
夜空に大輪の花が咲くその瞬間に、俺は、全部を伝えるんだ。
「あ、そうだ。ねえ、二人とも」
人混みの流れが少し緩んだ場所で、桜井さんが突然足を止めて振り向いた。
その目は、楽しそうに細められている。
「私たち、あっちの屋台見てくるね。向こうに凄いのがあるみたいだし!」
「え?」
「菜月も、射的やりたいんだって。ね?」
話を振られた中村さんが、口元のりんご飴を離してコクンと頷く。
「……うん。特賞取るまで、帰らない」
「ちょ、ちょっと待ってよ。四人で回るんじゃ……」
橘さんが慌てて声を上げようとしたけれど、桜井さんは聞く耳を持たない。
俺の方を見て、パチリと片目でウインクを飛ばしてきた。
『――あとは、頑張んなさいよ』
声には出さないけれど、その口の動きは確かにそう言っていた。
「じゃ、花火始まる前に連絡するから! それまで逸れないようにねー!」
言うが早いか、二人は俺たちの返事も聞かずに、人混みの中へと消えていった。
嵐のような早業だった。
残されたのは――俺と、橘さんだけ。
周囲の喧騒は変わらないはずなのに、急に世界が静まり返ったように感じる。
行き交う人々が川の流れのように俺たちを避けて通り、この場所だけがぽっかりと孤島になったみたいだ。
二人きり。
もう、誰も割り込まない。
「……行っちゃった、ね」
橘さんが、困ったように、でも少しだけ安堵したように眉を下げて笑った。
「……だね。完全に、計られたな」
俺は苦笑いしながら、心の中で真琴さんたちに深く感謝した。
これは、「行け」という合図だ。
もう逃げるな、という彼女たちなりの荒っぽいエールだ。
「……どうする? 追いかける?」
橘さんが上目遣いで聞いてくる。
でも、その瞳は答えを期待しているように潤んでいる。
俺は、首を横に振った。
「いや……このまま、二人で回ろう」
その言葉を口にした瞬間、橘さんの頬が、提灯の明かりよりも赤く染まった。
「……うん。……私も、そうしたい」
蚊の鳴くような、でもはっきりとした肯定。
俺たちの関係は、もう「友達グループ」という隠れみのを失った。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
俺たちは並んで歩き出した。
さっきよりも、意識して近づけた肩の距離。
浴衣の袖が触れ合うたびに、心臓が痛いくらいに跳ねる。
花火が上がるまで、あと数時間。
この喧騒の中で、俺たちは「二人だけの世界」へと踏み込んでいった。
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