4フタ[ニ・蓋]
小学校一年生であった私にとって、唇を合わせるという行為は夏休みにテレビで流れるアニメーション映画のラストシーン以上の意味は持っていなかったと思う。二人の人物が心を通わせ、その関係が固定され、城が後ろの花火によって影となり、祝福された関係が見る者の中に焼き付けられる、そのような意味を持つ行為として、低学年の目に写っていたのだと思う。自らの内的な欲求というより、外的に特別な意味合いを持たされた行為であった。アニメーションのキャラクターには(私が見ていた種類の子ども向けの物には)多くの場合一人の相手がいて、二人である。一人はひたすらに一人だが、二人居ればそれで世界は充足し、完結している。二人というのは内側の世界に蓋をして、満ち足りた関係を構成するための単位であるかのように、少なくとも物語を見ると書かれている。小学生の私には、それでは二人だったものが一人になった時に何が起こるのか、そのような世の中の悲しさについての見識は無かった。ただとにかく、自分の世界に蓋をしてくれる相手を、アニメーションと見比べて漠然と求めていたに過ぎなかったのだと思う。そしてたまたま、その女の子が夢の中で選ばれた。
この語りの中ではその女の子については深く掘り下げるつもりはないので名前は呼ばないことにする。顛末のみを簡潔に話すと、私は特にその女の子に「モテる」ことはなく、まるで方向を変えない二隻の小舟がすれ違った後のように、離れ行くままクラス替えを迎えたのであった。船が通った後に出来る波の軌跡は一瞬岸を揺らして大海に呑み込まれて消えてしまった。ともあれ、私がここでお伝えしたかったことは、小学校低学年であった私は漠然と(内的な欲求というよりは外的に価値づけられた行為として)恋愛と呼ばれる行為に憧れを持っていたことと、ささいなきっかけで(夢にもし宗教的な意味が無かったとしたら、ということであるが)ある人の事が気になってしまうくらい、不規則で無軌道な心の働きを持っていた、そんな小学生であった、ということである。
そして学年が上がり、小学校高学年になったときに、私は「向日葵の君」に心が惹かれるようになっていった。




