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負けた人たちの話  作者: San


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負けた人たちの話 5

四十二歳になっていた。


 男は、朝から将棋盤の前に座っていた。


 窓の外では、春の風が吹いている。


 桜が咲いていた。


 けれど、男は見ていなかった。


 盤の上に並んだ駒だけを見ていた。


 飛車。


 角。


 金。


 銀。


 何十年も見てきた駒だった。


 それでも、毎朝のように並べる。


 同じように駒を置き、同じように盤面を見る。


 そして、考える。


 一手。


 また一手。


 男が将棋を始めたのは、まだ十代の頃だった。


 学校が終われば道場へ行った。


 休日も将棋を指した。


 友人と遊ぶより、将棋を指しているほうが楽しかった。


 将来、何になるのかなんて考えていなかった。


 ただ強くなりたかった。


 いつか、誰にも負けないくらい強くなりたかった。


 若かった。


 だから、自分にはまだ時間があると思っていた。


     *


 そして、あの少年と出会った。


 初めて対局したとき、男は二十代だった。


 少年は、まだ子どもだった。


 対局が始まる。


 男はいつものように考えた。


 長く考えた。


 何度も読み直した。


 けれど、少年はその先にいた。


 男が考えていることを、少年はすでに終えていた。


 そして負けた。


 男は悔しかった。


 だから、全部捨てた。


 遊びも。


 仕事も。


 人付き合いも。


 将棋以外の時間を、できるだけ将棋に変えた。


 寝る時間を削った。


 本を読んだ。


 棋譜を並べた。


 毎日、何時間も盤の前に座った。


 そして数年後。


 再び少年と対局した。


 負けた。


 また負けた。


 それでも男は辞めなかった。


 むしろ、その敗北が男をさらに将棋へ向かわせた。


「まだ足りない」


 そう思った。


 もっと勉強すればいい。


 もっと強くなればいい。


 そうすれば、いつか。


 いつか勝てる。


 そう思っていた。


     *


 三十歳。


 負けた。


 三十三歳。


 負けた。


 三十五歳。


 負けた。


 三十七歳。


 負けた。


 三十九歳。


 負けた。


 四十歳。


 また負けた。


 少年は成長していた。


 少年と呼ばれていた人間は、いつの間にか大人になった。


 髪型も変わった。


 声も変わった。


 立場も変わった。


 将棋界での名前も大きくなった。


 けれど、男にとっては同じだった。


 盤の向こうにいる。


 何度やっても勝てない。


 ただ、それだけだった。


 男は毎回、対局が終わると研究した。


 何が悪かったのか。


 どこで差がついたのか。


 何が足りなかったのか。


 そして、次の対局までに直した。


 直して。


 また負けた。


 その繰り返しだった。


     *


 四十二歳。


 朝。


 男は盤の前に座っている。


 妻が台所から声をかけた。


「ご飯できたよ」


「ああ」


 男は盤を見たまま答えた。


「冷めるよ」


「分かった」


 妻は何も言わなかった。


 もう慣れていた。


 男が将棋を始めた頃から、ずっと一緒にいる。


 何度も負ける姿を見てきた。


 何度も勝てない相手へ向かっていく姿も。


 妻には、その理由が分からなかった。


 どうしてそこまで続けるのか。


 どうして一度くらい、


「もういい」


 と言わないのか。


 けれど、聞かなかった。


 聞いたところで、男自身も答えられないと思っていたからだ。


     *


 その年も大会があった。


 男は勝ち進んだ。


 若い頃ほど速くはない。


 体力も落ちた。


 長時間考えると頭が重くなる。


 昔なら簡単にできたことが、少しずつ難しくなっている。


 それでも勝った。


 また勝った。


 そして。


 対局表に、見慣れた名前が出た。


 男は紙を見つめた。


 驚かなかった。


 もう何度も見ている名前だった。


 対局の日。


 男は盤の前に座った。


 向かい側には、かつて少年だった男がいる。


 今では、誰も彼を少年とは呼ばない。


 男は駒を見た。


 そして、いつものように考え始めた。


     *


 一手目。


 二手目。


 三手目。


 静かに進んでいく。


 男は考えた。


 長く考えた。


 昔よりも慎重になった。


 経験もある。


 知識もある。


 何十年分もの対局経験がある。


 そして、ようやく一手を指した。


 向かい側の男が指す。


 ぱちん。


 その音を聞く。


 男はまた考える。


 不思議だった。


 何十年もやっている。


 何度も負けている。


 なのに、この瞬間だけはいつも新鮮だった。


 相手の手を見た瞬間。


 また知らない場所に連れていかれる。


 男は必死に追いかけた。


 考える。


 読む。


 戻る。


 また読む。


 それでも、少しずつ差が広がっていく。


 気づけば、もう苦しくなっていた。


 それでも指す。


 最後まで指す。


 そして。


 負けた。


「ありがとうございました」


 男は頭を下げた。


 向かい側の男も頭を下げた。


 それだけだった。


     *


 帰宅すると、妻がいた。


「どうだった?」


「負けた」


「そう」


 妻はそれ以上聞かなかった。


 男は鞄を置いた。


 そして、将棋盤を出した。


「またやるの?」


「ああ」


「今日負けたばかりなのに?」


「だからだよ」


 妻は少し笑った。


「そう」


 男も少し笑った。


 盤を並べる。


 今日の対局を再現する。


 負けた場所を探す。


 ここか。


 違う。


 その前か。


 違う。


 もっと前。


 男は駒を戻す。


 また考える。


 時計を見る。


 夜になっていた。


 それでも続ける。


     *


 四十三歳。


 男はまた将棋を勉強している。


 四十四歳。


 また大会へ出る。


 四十五歳。


 また負ける。


 四十六歳。


 また研究する。


 四十七歳。


 また挑戦する。


 五十歳になっても。


 男は将棋盤の前に座っていた。


 昔のような勢いはない。


 身体も少しずつ変わっていった。


 若い棋士たちが増えていく。


 自分より若い人間が、自分より強くなっていく。


 それでも男は続けた。


 勝てない。


 それは分かっている。


 けれど、やめる理由にもならなかった。


 少年に勝つために始めた努力だった。


 いつの間にか、その努力そのものが生活になっていた。


 朝起きる。


 将棋を指す。


 仕事をする。


 帰る。


 将棋を指す。


 眠る。


 また朝になる。


 何十年も、その繰り返しだった。


     *


 ある春の日。


 男はまた大会へ向かっていた。


 電車の窓から桜が見えた。


 若い頃にも、同じ景色を見たことがある。


 あの頃は、いつか勝てると思っていた。


 今は違う。


 勝てるかどうかは、もう考えなくなっていた。


 ただ、対局する。


 それだけだった。


 駅に着く。


 会場へ向かう。


 受付をする。


 席に座る。


 将棋盤を出す。


 駒を並べる。


 そして、相手を待つ。


 しばらくして、向かい側に人が座った。


 男は顔を上げた。


 知らない若い棋士だった。


 昔の自分より、ずっと若い。


「お願いします」


「お願いします」


 対局が始まる。


 男は盤を見る。


 駒を指す。


 ぱちん。


 また一手。


 ぱちん。


 その音を聞きながら、男は考えていた。


 今日も勝てるかもしれない。


 今日も負けるかもしれない。


 そんなことは、もう分からない。


 ただ。


 まだ考えたいと思った。


 それだけだった。


 何十年も前。


 一人の少年に負けた。


 それからずっと、男はその少年を追いかけてきた。


 追いつけなかった。


 何度挑戦しても。


 何度努力しても。


 何度、自分を変えても。


 それでも、今日も盤の前にいる。


 男は次の一手を考えた。


 窓の外では、春の風が吹いていた。


 桜が散り始めていた。


 男はそれを見なかった。


 ただ、目の前の盤だけを見ていた。


 そしてまた、一手を指した。

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