負けた人たちの話 4
将棋教室には、午後になると子どもたちの声が集まった。
「先生、ここはどうですか?」
「そこに打つと、次に取られる」
「じゃあ、こっち?」
「うん。そのほうがいい」
「なんで?」
「相手が次に何をしたいのか考えてみよう」
小さな将棋盤が、いくつも並んでいる。
盤の上には、まだ覚えたばかりの子どもたちが動かした駒が、思い思いの場所に置かれていた。
先生は一つの盤の前にしゃがみ込み、少年の指した駒を戻した。
「ここまで戻そう」
「はい」
「もう一回、自分で考えてみようか」
「はい!」
元気な返事が返ってくる。
先生は笑った。
こういう時間が好きだった。
自分が将棋を指していた頃とは、ずいぶん違う。
勝つこと。
負けないこと。
強くなること。
大会で結果を残すこと。
昔は、そればかり考えていた。
今は違う。
子どもが一手を考えている時間を眺めることのほうが好きだった。
間違えてもいい。
負けてもいい。
次にどうするかを考えればいい。
そう教えている。
けれど。
その言葉を口にするたびに、先生の胸の奥には一つだけ、隠している記憶があった。
自分も、昔はそう思っていた。
*
「先生」
教室が終わりに近づいた頃、一人の少年が話しかけてきた。
小学六年生。
この教室に通い始めて三年になる。
名前は直人。
将棋が好きで、負けるとすぐに悔しがる。
そして次の日には、また将棋を指しに来る。
先生は、そういうところが気に入っていた。
「どうした?」
「お願いがあります」
「うん」
直人は少し緊張した顔をしていた。
「僕……あの人と指したいです」
「あの人?」
先生には分かっていた。
それでも聞き返した。
「テレビに出てる人です」
「……ああ」
「天才って言われてる人」
先生は黙った。
直人は続けた。
「僕、いつかあの人に勝ちたいです」
その言葉を聞いた瞬間。
先生の胸の奥に、古い記憶が戻ってきた。
四十手ほど先まで読んでいた。
そう思っていた。
自分では完璧に考えた。
何度も読み直した。
準備もした。
そして、少年と対局した。
負けた。
それだけなら、まだよかった。
問題は、そのあとだった。
感想戦で少年が、
「ここは、こうしたらよかったと思います」
と説明した。
先生は理解できなかった。
何度聞いても。
何度盤面を見ても。
少年が見ていたものが、自分には見えていなかった。
その日。
先生は初めて思った。
――自分は、この人には勝てない。
そして将棋を辞めた。
完全に捨てたわけではない。
けれど、競技として追いかけることをやめた。
しばらくして、この教室を始めた。
将棋そのものは好きだった。
だから教えることにした。
それ以来、何人もの子どもを見てきた。
強くなる子もいた。
途中で辞める子もいた。
将棋より別のことを好きになる子もいた。
そして、直人は今までで一番、才能のある子だった。
先生には分かっていた。
直人は強い。
かなり強い。
同じ年齢の子どもなら、ほとんど負けない。
このまま努力すれば、もっと強くなる。
大会でも結果を出すだろう。
もしかしたら、将来は本格的に将棋の道へ進むかもしれない。
だからこそ。
先生には分かっていた。
いつか直人は、あの少年と出会う。
そして――。
勝てない。
それは、たぶん変わらない。
*
「先生」
「ん?」
「僕、もっと強くなりたいです」
「うん」
「あの人に勝つために」
先生は直人の目を見た。
まっすぐだった。
憧れと悔しさが混ざっている。
「どうして勝ちたいんだ?」
「だって……」
直人は少し考えた。
「テレビでみんなが、あの人は誰にも勝てないって言ってるから」
「そうか」
「だったら、僕が勝ちたい」
先生は笑った。
「いいね」
直人の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ、もっと教えてください」
「もちろん」
先生はそう答えた。
けれど、心の中では別のことを考えていた。
――勝てるようにする。
ではない。
――負けても壊れないようにする。
それが、この子に教えるべきことなのだと思った。
*
それから指導は少し変わった。
以前より、勝ち方を教えなくなった。
代わりに、負け方を教えた。
「負けた理由を一つだけ探してみよう」
「全部ですか?」
「全部探す必要はない」
「でも、いっぱい悪いところが……」
「一つでいい」
「なんで?」
「全部直そうとすると、自分が嫌になるから」
直人は首を傾げた。
「将棋って、そういうものですか?」
「先生はそう思ってる」
先生は盤を指した。
「ここで負けたとしても、次の一局ではここを直せる。それだけでいい」
「でも、勝ちたいです」
「うん」
「先生は勝ちたくないんですか?」
一瞬。
先生の手が止まった。
「……昔は、勝ちたかったよ」
「今は?」
「今は、君たちが将棋を嫌いにならないほうが大事かな」
直人には、その意味が分からなかった。
先生はそれ以上説明しなかった。
*
半年が過ぎた。
直人はさらに強くなった。
大会で優勝することも増えた。
負ける回数も減った。
そしてある日。
「先生!」
教室へ飛び込んできた。
「出ました!」
「何が?」
「大会の組み合わせ!」
先生は嫌な予感がした。
「まさか」
「はい!」
直人は紙を広げた。
「次の大会に、あの人も出るみたいです」
先生は紙を見る。
名前があった。
間違いない。
あの少年。
今ではもう、日本中が知っている棋士。
先生は黙って紙を見つめた。
「先生!」
「うん」
「僕、当たるかもしれません」
「そうだな」
「もし当たったら……」
直人が笑う。
「勝ちます」
先生は笑顔を返した。
「頑張れ」
それしか言わなかった。
*
大会の日。
直人は勝ち進んだ。
一局。
また一局。
そして、ついにその名前と当たった。
先生は観客席から見ていた。
直人が盤の前に座る。
向かい側には、あの少年がいる。
先生の胸が少し痛んだ。
昔の自分と同じだった。
何も知らない。
まだ分からない。
これから、自分がどれほど大きな差を見せつけられるのか。
直人は一手目を指した。
少年も指した。
対局が始まる。
先生は見ていた。
直人は必死に考えている。
何度も盤面を見る。
時間を使う。
考えている。
それに対して少年は、静かだった。
落ち着いている。
先生には分かった。
直人が一生懸命考えているその先を、少年はすでに見ている。
やがて。
直人が少し苦しそうな顔をした。
先生は目を閉じた。
――始まった。
あの日の自分と同じだった。
自分の知らない世界を、直人も今見ている。
*
対局は終わった。
直人は負けた。
大差だった。
先生は直人のところへ向かった。
直人は盤を見つめていた。
「……先生」
「うん」
「僕……」
声が小さい。
「全然、駄目でした」
「そうだな」
「何をしても、先にいるんです」
「うん」
「僕、頑張ったのに」
先生は隣に座った。
「そうだな」
「……勝てないです」
先生はすぐには答えなかった。
その言葉を聞いた瞬間。
自分が昔言った言葉と同じだと思った。
――勝てない。
先生は直人の盤面を見た。
「直人」
「はい」
「今日、一つだけ覚えて帰ろう」
「何ですか?」
「あの人に負けたことじゃない」
直人が顔を上げる。
「じゃあ、何を?」
「今日、自分が何を考えたのか」
「……」
「あの人に負けた。それは事実だ」
先生は続けた。
「でも、あの人に勝てないことと、君が弱いことは同じじゃない」
直人は黙っていた。
「君は今日まで強くなってきた」
「でも……」
「うん。あの人はもっと強かった」
直人の目に、悔しさが浮かんだ。
先生はその顔を見て、少し安心した。
悔しがっている。
まだ将棋を見ている。
まだ盤から目を逸らしていない。
「先生」
「ん?」
「……また指したいです」
「そうか」
「次は勝てるように」
先生は笑った。
「じゃあ、また明日からやろう」
「はい!」
直人が盤を片づけ始める。
その背中を見ながら、先生は思った。
あの少年に勝つ方法を、先生は知らない。
自分も知らない。
おそらく、これから直人がどれだけ努力しても、簡単には届かない。
それでも。
教えることはできる。
負けたあとに、何を見るか。
勝てない相手を知ったあと、自分をどう見るか。
夢が壊れたとき、それでも何を残すか。
それだけは教えられる。
先生自身が、一度その壁にぶつかったから。
直人が帰ったあと。
誰もいなくなった教室で、先生は一人、将棋盤を見つめた。
昔の自分なら、今日の直人を見てこう思っただろう。
――かわいそうに。
けれど、今は違った。
直人はまだ将棋を嫌いになっていない。
それなら、それでいい。
先生は盤の上の駒を一つずつ片づけた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
ニュースの通知だった。
今日の大会結果。
あの少年が勝ったという短い記事。
先生は画面を見た。
そして、すぐに閉じた。
もう、自分はあの少年を追いかけてはいない。
けれど。
自分がかつて見た「どうしようもない壁」を、今度は生徒が見た。
先生はその事実を、少しだけ寂しく思った。
それでも。
明日も教室を開ける。
直人が来るからだ。
そして先生は、また子どもたちに言う。
「負けたら、まず一つだけ考えよう」
――何が悪かったのか。
ではなく。
――次に何を見られるようになりたいのか。
それを考えられるようになるまで。
先生は、将棋を教え続けるつもりだった。9




