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負けた人たちの話  作者: San


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3/6

負けた人たちの話 3

 悔しかった。


 それ以外の言葉が、最初は思いつかなかった。


 負けた。


 少年に。


 それが、どうしても許せなかった。


 帰り道、彼は何度も対局を思い返していた。


 あそこで違う手を指していれば。


 もう少し考えていれば。


 自分の読みが甘かった。


 準備が足りなかった。


 知識が足りなかった。


 そう思った。


 だから、まだ終わっていない。


 そう思えた。


 その日の夜。


 彼は家に帰ると、すぐに将棋盤を出した。


 夕食も後回しにした。


 机の上に棋譜を広げる。


 少年との対局を最初から再生する。


 駒を並べる。


 そして、途中で止める。


「ここだ」


 自分が悪かった場所を探す。


 何度も考える。


 別の手を指す。


 また少年の手を考える。


 それでも分からない。


 時計を見る。


 午前二時だった。


 彼はまだ盤の前にいた。


 眠かった。


 目も痛かった。


 それでもやめなかった。


「次は勝つ」


 小さく呟いた。


 その言葉だけは、はっきりしていた。


     *


 それから生活が変わった。


 朝起きる。


 仕事へ行く。


 仕事が終わる。


 帰宅する。


 将棋を指す。


 棋譜を見る。


 詰将棋を解く。


 また棋譜を見る。


 休日もほとんど同じだった。


 友人から遊びに誘われても断った。


 旅行にも行かなくなった。


 趣味に使っていた時間も、ほとんど将棋に変わった。


 周囲は心配した。


「そんなに頑張ってどうするんだ?」


 そう聞かれることもあった。


「勝ちたいんだ」


 彼はいつも同じ答えを返した。


 少年に。


 あの少年に。


 いつか勝ちたかった。


     *


 一年が経った。


 彼は強くなっていた。


 以前なら勝てなかった相手に勝てるようになった。


 道場でも名前を覚えられるようになった。


 大会に出れば、以前より上まで勝ち進める。


 周囲からも、


「最近、かなり強くなったな」


 と言われるようになった。


 彼自身も感じていた。


 努力は無駄ではなかった。


 確実に強くなっている。


 二年目。


 さらに強くなった。


 三年目。


 また強くなった。


 将棋の本を読み漁った。


 昔なら理解できなかった局面も分かるようになった。


 対局中に相手の考えが少しずつ見えるようになった。


 自分の弱点も分かるようになった。


 以前の自分とは、もう違う。


 そう思えた。


 そして四年目。


 ついに、その機会が来た。


 大会の組み合わせ表に、少年の名前があった。


 今ではもう、少年は少年ではなかった。


 将棋界で名前を知らない者はいないほどになっていた。


 何度も勝ち続けている。


 タイトル戦にも出ている。


 新聞にも名前が載る。


 テレビにも出る。


 それでも彼は怖くなかった。


 四年間、努力してきた。


 あの日から、一日も忘れたことはない。


 何千局も指した。


 何万手も考えた。


 もう、あの日の自分ではない。


 今なら――。


 勝負になる。


 そう思った。


     *


 対局の日。


 将棋盤を挟んで、二人が座った。


「お久しぶりです」


 少年が言った。


 彼は少し驚いた。


「覚えてたのか」


「はい」


 少年は笑った。


「前に一度、指しましたよね」


「ああ」


 四年。


 たった一度の対局を、少年は覚えていた。


 彼は駒を見た。


 手が震えそうになる。


 だが、抑えた。


 始まる。


 序盤。


 彼は慎重に指した。


 以前とは違う。


 無理に攻めない。


 相手の狙いを見る。


 四年間積み上げてきたものを、一つずつ盤上に置いていく。


 少年も指す。


 一手。


 また一手。


 彼は考える。


 長く考える。


 そして指す。


 ――悪くない。


 そう思った。


 以前とは違う。


 ちゃんと戦えている。


 中盤に入る。


 少しずつ局面が複雑になる。


 彼は考え続ける。


 十数分。


 さらに数分。


 ようやく一手を決める。


 駒を置く。


 ぱちん。


 少年が盤を見る。


 そして――。


「……」


 ほんの少しだけ考えた。


 少年の手が動く。


 ぱちん。


 彼は盤面を見る。


「……え?」


 理解できなかった。


 悪い手には見えない。


 むしろ、普通なら考えないような場所だった。


 彼は考える。


 五分。


 十分。


 それでも分からない。


 少年は静かに待っている。


 彼はようやく気づいた。


 この手は、自分が今考えている場所ではない。


 もっと先にある。


 そのさらに先。


 彼は必死に読む。


 一手。


 二手。


 三手。


 ようやく見える。


「……そういうことか」


 そこで初めて分かった。


 少年の狙いが。


 だが、分かった時には遅かった。


 少年はもう次の手を用意していた。


 彼は指す。


 少年が指す。


 また指す。


 そして数手後。


 盤面が大きく変わった。


 彼の陣形が崩れている。


 まだ負けではない。


 まだ続けられる。


 そう思った。


 だから粘った。


 必死に考える。


 逃げ道を探す。


 攻める場所を探す。


 何度も盤面を見る。


 けれど。


 ない。


 どこにもない。


 四年間で身につけた知識。


 何千局もの経験。


 自分なりに磨いてきた読み。


 その全部を使っている。


 なのに、少年はそのさらに外側にいる。


 彼は一手を指す。


 少年が指す。


 彼はまた考える。


 そして気づく。


 もう負けている。


 勝負としてではない。


 盤面の中で、完全に置いていかれている。


 それでも投了できなかった。


 最後まで指した。


 そして――。


「ありがとうございました」


 少年が頭を下げた。


 彼も頭を下げた。


 何も言えなかった。


     *


 対局が終わってから、彼は一人で盤を見ていた。


 四年前の自分なら、悔しくて仕方がなかっただろう。


 努力が足りなかったと思った。


 もっと頑張ろうと思った。


 けれど今は違った。


 四年間、努力した。


 本当に努力した。


 以前の自分とは比べものにならない。


 強くなった。


 それは間違いない。


 だからこそ、分かった。


 少年もまた、強くなっていた。


 しかも――。


 自分が四年かけて登った場所に、少年は最初からいたわけではない。


 もっと先へ行っていた。


 そして自分が四年間かけて身につけたものを、少年は対局の中で数分考えるだけで越えていった。


 彼はそこで、初めて理解した。


 自分が四年間努力したことには意味があった。


 だからこそ、今の自分には分かる。


 あの少年がどれほど遠い場所にいるのか。


 努力する前の自分には、それすら分からなかった。


 ただ「強い」と思っていた。


 今は違う。


 自分が強くなったからこそ、その差が見える。


 それは山の高さを知らなかった人間が、登り始めて初めて山頂までの距離に気づくようなものだった。


「……そういうことだったのか」


 彼は一人で呟いた。


 四年間。


 自分は少年に勝つために努力してきた。


 けれど、結果として分かったのは――。


 自分の努力が無駄だったことではない。


 むしろ逆だった。


 努力したからこそ、少年の才能がどれほど異常なのかを理解できてしまった。


 もし努力していなければ、


「いつか勝てるかもしれない」


 と思えただろう。


 けれど今は、思えない。


 自分がどれだけ強くなったのかを、自分自身が知っている。


 その上で負けた。


 だから分かる。


 この少年は、自分が想像していたより遥かに遠い。


     *


 帰り道。


 夕方の空が赤くなっていた。


 彼は駅まで歩いた。


 四年前と同じ道だった。


 けれど、気持ちはまったく違っていた。


 悔しかった。


 もちろん悔しい。


 四年間も努力したのだから。


 勝ちたかった。


 勝てると思っていた。


 だから胸の奥には、確かに悔しさが残っている。


 けれど、それと同時に妙な納得もあった。


 自分は逃げなかった。


 一度負けて、それから四年間、本気で追いかけた。


 そしてもう一度、負けた。


 だからこそ、今度は言える。


 ――自分には無理なのだ、と。


 それは諦めとは少し違った。


 自分の限界を、自分自身の努力によって確かめたのだ。


 駅に着く。


 電車を待つ。


 ホームに立つ。


 彼はスマートフォンを取り出した。


 将棋のアプリを開く。


 しばらく眺める。


 そして、閉じた。


 将棋を辞めるつもりはなかった。


 ただ、もう少年を追いかけるためには指さない。


 明日からも将棋は続ける。


 趣味として。


 自分が好きだから。


 勝てる相手と勝負して。


 負ける相手には負けて。


 たまには勝って。


 それでいい。


 電車が来る。


 風が吹く。


 彼は車内へ入った。


 窓の外を眺める。


 遠ざかっていく街を見ながら、ふと思った。


 四年前。


 あの少年に負けたとき、自分は「悔しい」と思った。


 四年間努力した。


 そして今日、また負けた。


 それでも今は、少しだけ違う。


 悔しさの中に、奇妙な尊敬が混ざっていた。


 自分が努力したからこそ分かる。


 あの少年は、自分たちが思っているよりずっと遠い。


 そして彼は知らなかった。


 この日から数年後。


 また別の誰かが、あの少年と対局することになる。


 その人は、彼のように四年間努力することはない。


 対局が終わったその日に、もう勝てないと悟る。


 そしてまた、その敗北によって人生を変える。


 天才少年は、ただ将棋を指しているだけだった。


 けれど、その一局一局が。


 盤の向こう側にいる人間たちの人生を、少しずつ違う方向へ動かしていた。


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