負けた人たちの話 3
悔しかった。
それ以外の言葉が、最初は思いつかなかった。
負けた。
少年に。
それが、どうしても許せなかった。
帰り道、彼は何度も対局を思い返していた。
あそこで違う手を指していれば。
もう少し考えていれば。
自分の読みが甘かった。
準備が足りなかった。
知識が足りなかった。
そう思った。
だから、まだ終わっていない。
そう思えた。
その日の夜。
彼は家に帰ると、すぐに将棋盤を出した。
夕食も後回しにした。
机の上に棋譜を広げる。
少年との対局を最初から再生する。
駒を並べる。
そして、途中で止める。
「ここだ」
自分が悪かった場所を探す。
何度も考える。
別の手を指す。
また少年の手を考える。
それでも分からない。
時計を見る。
午前二時だった。
彼はまだ盤の前にいた。
眠かった。
目も痛かった。
それでもやめなかった。
「次は勝つ」
小さく呟いた。
その言葉だけは、はっきりしていた。
*
それから生活が変わった。
朝起きる。
仕事へ行く。
仕事が終わる。
帰宅する。
将棋を指す。
棋譜を見る。
詰将棋を解く。
また棋譜を見る。
休日もほとんど同じだった。
友人から遊びに誘われても断った。
旅行にも行かなくなった。
趣味に使っていた時間も、ほとんど将棋に変わった。
周囲は心配した。
「そんなに頑張ってどうするんだ?」
そう聞かれることもあった。
「勝ちたいんだ」
彼はいつも同じ答えを返した。
少年に。
あの少年に。
いつか勝ちたかった。
*
一年が経った。
彼は強くなっていた。
以前なら勝てなかった相手に勝てるようになった。
道場でも名前を覚えられるようになった。
大会に出れば、以前より上まで勝ち進める。
周囲からも、
「最近、かなり強くなったな」
と言われるようになった。
彼自身も感じていた。
努力は無駄ではなかった。
確実に強くなっている。
二年目。
さらに強くなった。
三年目。
また強くなった。
将棋の本を読み漁った。
昔なら理解できなかった局面も分かるようになった。
対局中に相手の考えが少しずつ見えるようになった。
自分の弱点も分かるようになった。
以前の自分とは、もう違う。
そう思えた。
そして四年目。
ついに、その機会が来た。
大会の組み合わせ表に、少年の名前があった。
今ではもう、少年は少年ではなかった。
将棋界で名前を知らない者はいないほどになっていた。
何度も勝ち続けている。
タイトル戦にも出ている。
新聞にも名前が載る。
テレビにも出る。
それでも彼は怖くなかった。
四年間、努力してきた。
あの日から、一日も忘れたことはない。
何千局も指した。
何万手も考えた。
もう、あの日の自分ではない。
今なら――。
勝負になる。
そう思った。
*
対局の日。
将棋盤を挟んで、二人が座った。
「お久しぶりです」
少年が言った。
彼は少し驚いた。
「覚えてたのか」
「はい」
少年は笑った。
「前に一度、指しましたよね」
「ああ」
四年。
たった一度の対局を、少年は覚えていた。
彼は駒を見た。
手が震えそうになる。
だが、抑えた。
始まる。
序盤。
彼は慎重に指した。
以前とは違う。
無理に攻めない。
相手の狙いを見る。
四年間積み上げてきたものを、一つずつ盤上に置いていく。
少年も指す。
一手。
また一手。
彼は考える。
長く考える。
そして指す。
――悪くない。
そう思った。
以前とは違う。
ちゃんと戦えている。
中盤に入る。
少しずつ局面が複雑になる。
彼は考え続ける。
十数分。
さらに数分。
ようやく一手を決める。
駒を置く。
ぱちん。
少年が盤を見る。
そして――。
「……」
ほんの少しだけ考えた。
少年の手が動く。
ぱちん。
彼は盤面を見る。
「……え?」
理解できなかった。
悪い手には見えない。
むしろ、普通なら考えないような場所だった。
彼は考える。
五分。
十分。
それでも分からない。
少年は静かに待っている。
彼はようやく気づいた。
この手は、自分が今考えている場所ではない。
もっと先にある。
そのさらに先。
彼は必死に読む。
一手。
二手。
三手。
ようやく見える。
「……そういうことか」
そこで初めて分かった。
少年の狙いが。
だが、分かった時には遅かった。
少年はもう次の手を用意していた。
彼は指す。
少年が指す。
また指す。
そして数手後。
盤面が大きく変わった。
彼の陣形が崩れている。
まだ負けではない。
まだ続けられる。
そう思った。
だから粘った。
必死に考える。
逃げ道を探す。
攻める場所を探す。
何度も盤面を見る。
けれど。
ない。
どこにもない。
四年間で身につけた知識。
何千局もの経験。
自分なりに磨いてきた読み。
その全部を使っている。
なのに、少年はそのさらに外側にいる。
彼は一手を指す。
少年が指す。
彼はまた考える。
そして気づく。
もう負けている。
勝負としてではない。
盤面の中で、完全に置いていかれている。
それでも投了できなかった。
最後まで指した。
そして――。
「ありがとうございました」
少年が頭を下げた。
彼も頭を下げた。
何も言えなかった。
*
対局が終わってから、彼は一人で盤を見ていた。
四年前の自分なら、悔しくて仕方がなかっただろう。
努力が足りなかったと思った。
もっと頑張ろうと思った。
けれど今は違った。
四年間、努力した。
本当に努力した。
以前の自分とは比べものにならない。
強くなった。
それは間違いない。
だからこそ、分かった。
少年もまた、強くなっていた。
しかも――。
自分が四年かけて登った場所に、少年は最初からいたわけではない。
もっと先へ行っていた。
そして自分が四年間かけて身につけたものを、少年は対局の中で数分考えるだけで越えていった。
彼はそこで、初めて理解した。
自分が四年間努力したことには意味があった。
だからこそ、今の自分には分かる。
あの少年がどれほど遠い場所にいるのか。
努力する前の自分には、それすら分からなかった。
ただ「強い」と思っていた。
今は違う。
自分が強くなったからこそ、その差が見える。
それは山の高さを知らなかった人間が、登り始めて初めて山頂までの距離に気づくようなものだった。
「……そういうことだったのか」
彼は一人で呟いた。
四年間。
自分は少年に勝つために努力してきた。
けれど、結果として分かったのは――。
自分の努力が無駄だったことではない。
むしろ逆だった。
努力したからこそ、少年の才能がどれほど異常なのかを理解できてしまった。
もし努力していなければ、
「いつか勝てるかもしれない」
と思えただろう。
けれど今は、思えない。
自分がどれだけ強くなったのかを、自分自身が知っている。
その上で負けた。
だから分かる。
この少年は、自分が想像していたより遥かに遠い。
*
帰り道。
夕方の空が赤くなっていた。
彼は駅まで歩いた。
四年前と同じ道だった。
けれど、気持ちはまったく違っていた。
悔しかった。
もちろん悔しい。
四年間も努力したのだから。
勝ちたかった。
勝てると思っていた。
だから胸の奥には、確かに悔しさが残っている。
けれど、それと同時に妙な納得もあった。
自分は逃げなかった。
一度負けて、それから四年間、本気で追いかけた。
そしてもう一度、負けた。
だからこそ、今度は言える。
――自分には無理なのだ、と。
それは諦めとは少し違った。
自分の限界を、自分自身の努力によって確かめたのだ。
駅に着く。
電車を待つ。
ホームに立つ。
彼はスマートフォンを取り出した。
将棋のアプリを開く。
しばらく眺める。
そして、閉じた。
将棋を辞めるつもりはなかった。
ただ、もう少年を追いかけるためには指さない。
明日からも将棋は続ける。
趣味として。
自分が好きだから。
勝てる相手と勝負して。
負ける相手には負けて。
たまには勝って。
それでいい。
電車が来る。
風が吹く。
彼は車内へ入った。
窓の外を眺める。
遠ざかっていく街を見ながら、ふと思った。
四年前。
あの少年に負けたとき、自分は「悔しい」と思った。
四年間努力した。
そして今日、また負けた。
それでも今は、少しだけ違う。
悔しさの中に、奇妙な尊敬が混ざっていた。
自分が努力したからこそ分かる。
あの少年は、自分たちが思っているよりずっと遠い。
そして彼は知らなかった。
この日から数年後。
また別の誰かが、あの少年と対局することになる。
その人は、彼のように四年間努力することはない。
対局が終わったその日に、もう勝てないと悟る。
そしてまた、その敗北によって人生を変える。
天才少年は、ただ将棋を指しているだけだった。
けれど、その一局一局が。
盤の向こう側にいる人間たちの人生を、少しずつ違う方向へ動かしていた。




