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負けた人たちの話  作者: San


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負けた人たちの話 2

ただ、将棋盤をしまった。


 それだけだった。


 高校を卒業してから、ずっと将棋を続けてきた。


 毎週のように道場へ通った。


 休日になれば朝から夕方まで盤の前に座っていた。


 将棋が好きだった。


 勝つのが好きだったし、負けるのは嫌いだった。


 それでも、負ければ次は勝とうと思えた。


 少し勉強すればいい。


 もっと強い相手と指せばいい。


 そう思っていた。


 将棋というものは、努力した分だけ少しずつ先へ進めるものだと思っていた。


 だから、あの少年と会うまでは。


     *


 対局が終わったあと、彼はしばらく盤の前から動かなかった。


 相手は少年だった。


 自分よりずっと若い。


 けれど、その年齢を意識する余裕など、途中からなくなっていた。


 何をしても先を読まれているようだった。


 攻めても届かない。


 守っても崩される。


 考えている間に、少年はもう次の局面にいる。


 彼は最後まで粘った。


 粘って、粘って、それでも負けた。


「ありがとうございました」


 少年が頭を下げた。


「……ありがとうございました」


 彼も頭を下げた。


 それだけだった。


 少年は盤を片づけると、別の対局へ向かった。


 振り返ることもなかった。


 彼は、その背中を見ていた。


 不思議な気持ちだった。


 悔しい。


 もちろん悔しい。


 けれど、それだけではなかった。


 自分が長い時間をかけて積み上げてきたものが、目の前に置かれた一局によって、妙に軽く見えてしまった。


 家に帰ってからも、その感覚は消えなかった。


 いつものように棋譜を確認しようとした。


 スマートフォンを開く。


 対局記録を見る。


 途中まで進める。


 そして閉じた。


「……もういいか」


 誰に言うでもなく呟いた。


 その言葉は、思ったより簡単に口から出た。


     *


 数日後。


 彼は将棋道場へ行かなかった。


 一週間後も行かなかった。


 一か月後も。


 道場から連絡が来た。


『最近来ないけど、どうした?』


 彼は少し考えてから、


『仕事が忙しくて』


 とだけ返した。


 嘘ではなかった。


 就職活動を始めていた。


 将棋を続けながらではなく、普通に働くための仕事を探し始めた。


 履歴書を書いた。


 面接を受けた。


 スーツを買った。


 将棋の本を買うために使っていたお金を、生活費に回すようになった。


 そうしているうちに、少しずつ将棋のない生活が形になっていった。


 春。


 彼は会社員になった。


 配属されたのは営業部だった。


 最初は何も分からなかった。


 電話の取り方。


 名刺の渡し方。


 取引先との話し方。


 先輩の後ろについて、毎日覚えることばかりだった。


 けれど、仕事は意外とうまくいった。


 彼は物事を考えることには慣れていた。


 相手が何を求めているのか。


 今何を言えば話が進むのか。


 次に何が起きるのか。


 将棋とはまったく違う世界なのに、どこか似ていた。


 数年が経った。


 彼は昇進した。


 後輩もできた。


 給料も上がった。


 会社から評価されるようになった。


 上司から、


「君は判断が早いな」


 と言われることも増えた。


 仕事が終わったあと、同僚と飲みに行く。


 休日には友人と遊ぶ。


 旅行にも行った。


 新しい服を買った。


 部屋も少し広い場所へ引っ越した。


 生活は悪くなかった。


 むしろ、順調だった。


 将棋を辞めたことによって失ったものより、得たもののほうが多い。


 彼自身も、そう思っていた。


 だから、後悔はしていなかった。


 少なくとも、そう思うようにしていた。


     *


 三十歳になった頃。


 会社の昼休みに、彼は食堂で昼食を食べていた。


 隣の席の社員がスマートフォンを見ながら言った。


「この子、すごいらしいですよ」


「何が?」


「将棋です。今、一番強いって」


 彼は何気なく画面を見た。


 そこに、少年の写真があった。


 あの日の少年だった。


 少し大きくなっている。


 けれど、顔を見れば分かった。


 間違いない。


「ああ……」


 声が漏れた。


「知ってるんですか?」


「いや」


 彼は首を振った。


「昔、一回だけ見たことがある」


「へえ。実際に会ったんですか?」


「うん」


 それ以上は話さなかった。


 同僚はすぐ別の話題へ移った。


 彼も昼食を続けた。


 それだけだった。


 午後の仕事も普通にこなした。


 会議にも出た。


 取引先にも電話した。


 上司から頼まれた仕事を終わらせた。


 帰る頃には、もう少年のことなど忘れていた。


 ――はずだった。


     *


 その夜。


 家に帰る。


 夕食を食べる。


 シャワーを浴びる。


 ベッドに入る。


 部屋は静かだった。


 彼は天井を見た。


 なぜか眠れなかった。


 昼間に見た写真が浮かぶ。


 あの日の盤面。


 少年の手。


 最後に聞いた、


「ありがとうございました」


 という声。


 彼は目を閉じた。


 そして、ふと思った。


 もし、あの日負けなかったら。


 もし、あの少年と出会っていなかったら。


 自分は今でも将棋を続けていただろうか。


 答えは分からなかった。


 たぶん続けていただろう。


 プロになれるほど強かったわけではない。


 それでも、趣味として続けていたかもしれない。


 休日に道場へ行って。


 知らない人と対局して。


 勝ったり負けたりして。


 帰りに一人でラーメンを食べて。


 そんな生活をしていたかもしれない。


「……」


 彼は目を開けた。


 今の生活は悪くない。


 仕事は順調だ。


 給料も悪くない。


 人間関係にも恵まれている。


 将来への不安も、それほどない。


 だったら、何が足りないのだろう。


 彼自身にも分からなかった。


 将棋を辞めたことを後悔しているわけではない。


 もう一度、将棋をやりたいわけでもない。


 それでも。


 あの日、自分の前にいた少年のことを思い出すと、胸の奥に小さな空白ができる。


 それは痛みではなかった。


 悲しみでもない。


 ただ、


 「もし、あの日がなかったら」


 という、答えのない考えだった。


     *


 数日後。


 彼は会社帰りに本屋へ立ち寄った。


 仕事関係の本を探していた。


 その途中で、将棋のコーナーを見つけた。


 足が止まった。


 昔読んでいた本が並んでいた。


 懐かしかった。


 以前なら、ここで一冊手に取っていた。


 新しい定跡の本。


 詰将棋の本。


 棋士の対局集。


 どれも昔は欲しくて仕方がなかった。


 彼はしばらく棚を眺めた。


 そして、一冊だけ手に取った。


 ページを開く。


 盤面が載っている。


 駒の動きを目で追う。


 ――分かる。


 まだ分かる。


 昔覚えたことは、思ったより残っていた。


 少しだけ笑った。


 そのまま本を閉じる。


 買わなかった。


 棚に戻した。


 そして、仕事関係の本を一冊買って帰った。


     *


 その後も、彼は将棋を趣味にはしなかった。


 たまにニュースで将棋を見る程度だった。


 少年はますます有名になっていった。


 タイトルを取った。


 記録を作った。


 テレビにも出るようになった。


 彼はそのたびに、ほんの数秒だけ画面を見る。


 そして仕事へ戻る。


 ある日、会社で後輩が言った。


「先輩って、将棋できるんですよね?」


「昔ね」


「今度やりません?」


 彼は少し考えた。


「……いいよ」


 久しぶりに、そう答えた。


 休日。


 会社の休憩室で、後輩と将棋を指した。


 久しぶりだった。


 駒を並べる。


 盤を挟む。


 最初の一手を指す。


 ぱちん。


 小さな音がした。


 その瞬間。


 彼は少しだけ笑った。


 昔と同じ音だった。


 勝った。


 後輩が悔しそうに頭を抱えている。


「やっぱり先輩、強いじゃないですか」


「昔やってたからね」


「またやればいいのに」


「そうだな」


 彼は笑った。


 でも、それ以上は言わなかった。


 帰り道。


 夕方の街を歩きながら、彼は考えた。


 将棋を辞めた。


 それで人生は悪くならなかった。


 むしろ、仕事を見つけて、生活は安定した。


 あの日の選択は、間違いではなかった。


 だから、もう一度将棋を始める必要もない。


 ただ――。


 あの少年に負けた日から、自分の人生には一つだけ、開かない扉があるような気がした。


 開けたいわけではない。


 開ける必要もない。


 ただ、そこにあることだけを知っている。


 彼は駅へ向かった。


 明日も仕事がある。


 来週も仕事がある。


 来月も、おそらく同じような毎日が続く。


 それでいい。


 それで十分だった。


 そう思いながら歩いていると、駅前の大型モニターに、あの少年が映った。


 今では少年とは呼べないほど成長している。


 けれど、彼には分かった。


 あの日の少年だ。


 彼は足を止めた。


 ほんの数秒だけ、画面を見る。


 そして小さく呟いた。


「……元気そうだな」


 誰にも聞こえない声だった。


 画面の中の棋士は、何かを話している。


 けれど、彼はもう聞いていなかった。


 歩き出す。


 駅へ向かう。


 仕事のことを考える。


 明日の予定を考える。


 家に帰ったら何を食べようかと考える。


 いつもの生活に戻っていく。




 もう将棋を指すことはない。


 人生に不満があるわけでもない。


 後悔しているわけでもない。


 それでも、ときどき思う。


 あの日。


 もし、あの少年に出会わなかったら。


 自分は、どんな人生を歩いていたのだろう。


 その答えを知ることは、もうできない。


 だから彼は、その問いを抱えたまま歩いていく。


 仕事がうまくいっている人生を。


 何も間違っていない人生を。


 それでも時々、ほんの少しだけ、


 何かを置いてきたような気がする人生を。

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