負けた人たちの話 1
負けた。
その事実だけなら、珍しいことではなかった。
将棋を指していれば、負けることはある。
むしろ、勝ち続ける人間のほうが少ない。
だから、負けた直後のことについて、これまで深く考えたことはなかった。
駒を片づける。
頭を下げる。
感想戦をする。
そして家に帰る。
いつも、それで終わっていた。
けれど、その日は違った。
「……ありがとうございました」
向かいに座っていた少年が、ぺこりと頭を下げた。
まだ幼さの残る顔だった。
将棋盤の向こう側に座っている姿だけを見れば、どこにでもいる普通の少年に見える。
少し大きめのシャツ。
細い腕。
まだ声変わりしていない声。
対局が終われば、帰って母親に今日の出来事を話す。
そんな年頃に見えた。
男は何も言えなかった。
目の前には、終局した盤面がある。
自分の王は、逃げ場を失っていた。
何度見ても、そこから先はなかった。
だが、それが問題なのではない。
男が見つめていたのは、そこへ至るまでの手順だった。
頭の中で、最初から対局を巻き戻す。
十手前。
二十手前。
三十手前。
そこで、一度止まる。
――ここだ。
男はそう思った。
自分が悪かった場所。
そこなら、まだ勝負になっていた。
そう思っていた。
だから、もう一度考える。
あの時、別の手を指していたら。
駒を一枚動かしていたら。
少し時間を使っていたら。
――違う。
どの手を選んでも、その先に少年がいた。
男はゆっくり息を吐いた。
「……君」
「はい」
「今の局面……」
言葉が続かなかった。
少年は黙っている。
男は盤面を指さした。
「ここで、俺がこの手を指していたら?」
「それなら……」
少年は盤面を見た。
ほんの数秒だった。
「たぶん、こっちです」
少年が指を置いた。
「そうなると、次にこうして……」
また駒が動く。
「そのあと、こっちです」
男は黙って見ていた。
少年の指が止まった。
「だから、たぶん同じだと思います」
たぶん。
その言葉が妙に残った。
男は笑った。
「……たぶん、か」
「はい」
「自信あるんじゃないのか?」
「あります」
少年は普通に答えた。
嫌味ではなかった。
挑発でもなかった。
本当にそう思っているだけなのだろう。
男は、それ以上何も聞けなかった。
*
外へ出ると、夕方になっていた。
駅へ向かう道を歩きながら、男は何度もスマートフォンを取り出した。
対局の記録を確認する。
棋譜を眺める。
また最初から見る。
そして、途中で閉じる。
また開く。
同じことを繰り返した。
自分は弱くなったのだろうか。
最初に浮かんだのは、その考えだった。
だが、すぐに否定する。
少なくとも、昨日までの自分はそう思っていなかった。
ここ数年、将棋のために時間を使ってきた。
仕事が終わってから研究した。
休日も将棋盤の前に座った。
負ければ原因を探した。
勝てば、なぜ勝てたのかを考えた。
才能があるとは思っていない。
それでも、努力すれば少しずつ強くなれる。
そう信じていた。
その考え方が、今日まで一度も疑われたことはなかった。
今日までは。
駅のホームに立つ。
電車を待つ人たちがいる。
学生が笑っている。
会社員が疲れた顔でスマートフォンを見ている。
いつもの夕方だった。
なのに、男だけが別の場所にいるような気がした。
電車が来る。
乗り込む。
座席に座る。
窓の外が流れていく。
男はぼんやりとガラスに映った自分の顔を見た。
普通の顔だった。
いつもと変わらない。
なのに、なぜか少し老けたように見えた。
ふと、少年の顔を思い出す。
対局中、一度も焦っていなかった。
苦しそうな顔もしなかった。
長く考える場面すら、ほとんどなかった。
男が一手を指す。
少年が見る。
そして指す。
それだけだった。
まるで、自分が必死に探している答えを、少年は最初から知っているようだった。
「……」
男は目を閉じた。
眠ろうとした。
しかし眠れなかった。
頭の中で、盤面が勝手に浮かんでくる。
駒が動く。
少年の手が見える。
また負ける。
目を開ける。
電車の中だった。
*
家に帰ると、妻が夕食を用意していた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、将棋だったんでしょ?」
「ああ」
「どうだった?」
男は靴を脱ぎながら少し黙った。
「負けた」
「そう」
妻はそれ以上聞かなかった。
いつものことだからだ。
将棋をしていれば、勝つ日もあれば負ける日もある。
男自身も、いつもならそう答えていた。
だが、その日は違った。
「……すごい子がいた」
「子?」
「ああ」
「強かったの?」
「強いとか、そういう……」
男は言葉を探した。
「……いや。強かった」
それしか言えなかった。
夕食を食べる。
テレビがついている。
妻が今日の仕事の話をしている。
男も適当に返事をする。
いつもの夜だった。
けれど、食事が終わっても、男は将棋盤を出さなかった。
いつもなら、帰宅したあと少しだけ棋譜を見る。
今日は何を間違えたのか。
次はどうすればいいのか。
そうやって一日の終わりに将棋を考える。
だが、その日は盤を見ることができなかった。
見れば、あの少年を思い出してしまう気がした。
寝室に入る。
布団に横になる。
天井を見る。
暗闇の中で、今日の最後の局面だけが鮮明に浮かんだ。
そして、初めて考えた。
――俺は、あいつに勝てるのだろうか。
答えはすぐに出た。
出てしまった。
無理だ。
その考えを打ち消そうとして、別の可能性を探す。
もっと勉強すればいい。
もっと研究すればいい。
もっと将棋を指せばいい。
何年かかければいい。
そう考えようとする。
しかし、そのたびに今日の盤面が浮かんだ。
努力が足りなかったのではない。
準備が足りなかったのでもない。
単純に、自分の理解できる場所より先に、少年がいた。
男は布団の中で目を閉じた。
眠れなかった。
*
翌朝。
目覚ましが鳴った。
男はいつも通り起きた。
顔を洗う。
朝食を食べる。
着替える。
家を出る。
駅へ向かう。
昨日までと何も変わらない。
仕事へ行く。
それだけのことだった。
電車の中で、ふとスマートフォンを取り出した。
将棋アプリを開く。
いつものように対局画面を開こうとして――
指が止まった。
閉じた。
自分でも驚いた。
こんなことは初めてだった。
駅に着く。
会社へ向かう。
仕事をする。
午前中は忙しかった。
昼休みになる。
同僚が話しかけてくる。
「昨日、将棋だったんだろ?」
「ああ」
「勝った?」
男は少しだけ笑った。
「負けたよ」
「珍しいな」
「そうでもない」
「また次があるだろ」
男は返事をしなかった。
また次。
その言葉を聞いて、なぜか胸が苦しくなった。
次がある。
確かにある。
少年と再び対局する機会も、おそらくある。
だから、そこで勝てばいい。
そう考えることはできる。
けれど――。
男は窓の外を見た。
昼の街は明るかった。
車が走っている。
人が歩いている。
誰も昨日の対局を知らない。
誰も、あの少年を知らない。
誰も、自分が昨日見たものを知らない。
男はそこで初めて気づいた。
昨日、少年に負けたことそのものが怖いのではない。
怖いのは、
あの少年を知る前の自分には、もう戻れないことだった。
努力すれば届くと思っていた。
いつか強くなれば勝てると思っていた。
負けても、次があると思っていた。
その「いつか」を信じて将棋を続けてきた。
けれど昨日、一人の少年が、その考えを盤の上で静かに壊した。
男は昼休みが終わるまで、窓の外を見ていた。
そして午後五時。
仕事を終える。
会社を出る。
駅へ向かう。
いつもの帰り道だった。
だが、男は途中で足を止めた。
駅とは反対方向。
小さな将棋道場がある。
昨日までなら、迷わずそこへ向かっていた。
男はしばらく入口を見つめた。
帰ろうかと思った。
もう将棋を考えたくなかった。
それでも――。
ゆっくりと扉を開けた。
中から、駒を打つ音が聞こえた。
ぱちん。
静かな音だった。
男はその音を聞きながら、思った。
勝てるかどうかは、まだ分からない。
昨日は負けた。
圧倒的に。
何もできなかった。
それでも、自分が今日ここへ来た理由だけは分からなかった。
勝ちたいからなのか。
悔しいからなのか。
それとも、昨日までの自分を取り戻したいからなのか。
男は椅子に座った。
目の前に将棋盤を置く。
駒を並べる。
一枚ずつ。
いつものように。
そして最初の駒を手に取った。
その手は、少し震えていた。
それでも男は、駒を盤の上へ置いた。
ぱちん。
その音だけが、静かな道場に響いた。




