負けた人たちの話 6
その二人の対局を、最初に見たのは偶然だった。
私は当時、まだ二十代だった。
将棋を始めて十年ほど。
大会にも出るし、道場にも通う。
強い方ではあると思っていた。
少なくとも、自分より弱い相手なら、盤を見ればだいたい分かった。
どこが悪かったのか。
どこで差がついたのか。
次に何を指せばよかったのか。
もちろん、分からないことも多い。
それでも、将棋を指す人間には、なんとなく分かるものがある。
この人は自分より強い。
この人は少し強い。
この人とは、今の自分なら勝ったり負けたりする。
そういう感覚だ。
だから、あの二人を初めて見たときも、すぐに分かった。
少年の方が、圧倒的に強い。
まだ少年だった。
小学生だったか、中学生になったばかりだったか。
細かい年齢は覚えていない。
ただ、対面に座っていた男の方は、私より少し年上だった。
その男は、少年をじっと見ていた。
「今日こそ勝つからな」
そう言って笑った。
少年は、
「はい」
とだけ答えた。
私は、その会話を聞いて少し笑った。
もちろん、悪い意味ではない。
よくある光景だった。
強い子供に何度も挑戦する大人。
そういう人は、道場にはたまにいる。
好きだから続ける。
負けても悔しくないわけではない。
悔しいから、また指す。
そんなものだと思っていた。
対局が始まった。
私は少し離れたところから盤を見ていた。
最初の数手は普通だった。
少なくとも、私にも理解できた。
だが、途中から分からなくなった。
男が一手指す。
少年が指す。
また男が指す。
少年が指す。
私は盤面を見ていた。
何かがおかしい。
少年の指した手だけを見れば、悪くない。
けれど、どうしてその手なのかが分からない。
男の方は、もっと分からない。
というより――
男は分かっているように見えた。
それが不思議だった。
男は少年の手を見るたびに、
「なるほどな」
と呟いていた。
まるで自分と少年が、同じ場所から盤面を見ているように。
私はそう思った。
しかし、実際には違った。
対局が終わってから、その男が笑いながら言った。
「惜しかったな」
少年は首を傾げた。
「そうですか?」
「あと少しだった」
「そうですか」
私はその会話を聞きながら、盤を見た。
あと少し。
そんなものではなかった。
私には、最初から少年が少しずつ押していたようにしか見えなかった。
けれど男は、そう思っていない。
いや。
思っていないというより――
思う必要がないのかもしれなかった。
「またやろうな」
「はい」
二人は普通に別れた。
私はそれで終わりだと思った。
そのときは。
*
それから数年。
私は何度か、その二人を見かけるようになった。
男は、毎回少年に挑戦していた。
「今度はいける」
「そうですか」
「前とは違うぞ」
「はい」
「ちゃんと研究してきたからな」
「はい」
男は楽しそうだった。
負ける。
また挑戦する。
負ける。
また研究する。
そして、また挑戦する。
私は何度もその光景を見た。
そして、毎回同じことを思った。
――やっぱり、この二人には差がある。
ただ、その差は少しずつ見え方が変わっていった。
最初は単純だった。
少年の方が強い。
それだけだった。
しかし、少年が成長するにつれて、私は少年の指している手を理解できなくなっていった。
いや。
正確には、理解するまでに時間がかかるようになった。
対局中には分からない。
家に帰ってから棋譜を並べて、
「ああ、そういうことか」
と気づく。
そして次の瞬間には、
「いや、待てよ」
となる。
さらに何手か先を見る。
また分からなくなる。
そんなことが増えていった。
一方で、男は相変わらずだった。
「今のは俺の方が良かったな」
そう言う。
私は思わず聞いた。
「そう思うんですか?」
「ああ」
「……すごいですね」
「何が?」
「いや……」
私は言葉を濁した。
その男には、本当にそう見えているらしかった。
少年と自分が、同じ土俵に立っている。
そう信じている。
私は違った。
少なくとも、私にはそう見えなかった。
*
さらに年月が過ぎた。
少年は少年ではなくなった。
いつの間にか、テレビにも出るようになった。
名前を知らない人間の方が少なくなった。
将棋を知らない人まで、その名前を知っていた。
私はその頃には、もう二人の対局を何度も見ていた。
そして、ある日。
久しぶりに二人の対局を見ることになった。
男は相変わらずだった。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
「今日は勝つぞ」
「はい」
何も変わっていない。
そう思った。
けれど、盤を挟んで座った二人を見た瞬間、私は違和感を覚えた。
以前とは何かが違う。
指す速度。
盤を見る時間。
駒を置く音。
何もかもが静かだった。
一手目。
二手目。
三手目。
私は盤を追った。
五手目。
十手目。
十五手目。
まだ分かる。
二十手目。
少し怪しくなった。
三十手目。
もう分からない。
男が指した。
少年が指した。
男が少し考えた。
そして指した。
私はその瞬間、初めて気づいた。
――速い。
いや。
指す速度が速いわけではない。
考えている場所が、私たちとは違う。
私たちは盤面を見ている。
彼らは、その先を見ている。
そんな感覚だった。
私は隣にいた別の棋士に聞いた。
「今の手、分かりました?」
「……いや」
彼も首を振った。
「何を考えてるんだ?」
誰にも分からなかった。
それでも二人は指していた。
まるで会話をしているようだった。
言葉はない。
駒だけが動く。
一手。
また一手。
そのたびに、互いの考えに返事をしている。
私は途中から、盤面を見るのをやめた。
見ても分からないからだ。
それでも二人から目を離せなかった。
*
対局が終わった。
男は負けた。
いつものように。
「参ったな」
そう言って笑った。
少年――いや、もう少年ではないその人は、
「ありがとうございました」
と言った。
男は盤を片付けながら言った。
「またやろう」
「はい」
私は、その会話を聞いていた。
何十年も変わらない会話だった。
負ける。
また挑戦する。
また負ける。
それでも、男はやめない。
そして私は、その二人を見ながら考えていた。
昔は、男が何も分かっていないと思っていた。
自分と相手の差が見えていない。
そう思っていた。
けれど、今は少し違う。
もしかすると。
男は、差があることを知らないのではない。
知ろうとしていないのかもしれない。
あるいは。
知る必要がないのかもしれない。
負けた。
だから、次に指す。
ただそれだけなのかもしれなかった。
私は結局、その二人の間にあるものを理解できなかった。
それは実力差なのか。
経験なのか。
才能なのか。
それとも、何十年も同じ相手と盤を挟み続けた人間にしか分からない何かなのか。
分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
昔は、私にも二人の将棋が見えていた。
少年がどこで優勢になったのか。
男がどこで間違えたのか。
ある程度は分かった。
けれど今は違う。
私はただ、二人が指しているのを見ることしかできない。
一手の意味を考えているうちに、二手先の話になっている。
二手先を考えているうちに、もう局面そのものが変わっている。
気がつけば、二人は私の理解できる場所よりずっと遠くにいた。
それでも男は、いつものように言う。
「次は勝つからな」
相手は、
「はい」
と答える。
私は盤を見た。
駒が並んでいる。
いつも見ている将棋盤だった。
けれど、その二人がその上で見ているものだけは、私にはもう見えなかった。
それから何年経っても、二人は何度も盤を挟んだ。
男は挑戦し続けた。
勝てない。
それでも、また指す。
そして私は、いつしかその対局を見るたびに、勝敗を気にしなくなった。
どちらが勝つかは、もう分かっている。
それよりも気になるのは、
――今日は、二人には何が見えているのだろう。
ということだった。
私には分からない。
きっと、これからも分からない。
それでも二人は、今日も盤を挟んでいる。
男が駒を置く。
相手がそれを見る。
少しだけ考える。
そして、駒を置く。
私は少し離れたところから、それを見ていた。




