第2話「月の魔女」‐①
日が沈むと、虫の鳴き声も暑さも落ち着いてくる。先日の蒸し暑さはどこへやら、少しの涼しさを肌で感じる。じっとりとした夜風にオウは目を細めた。あんなに明るかった月の光は、今は厚い雲に隠されてしまっている。もう少しすれば、風で流れるだろうか。
一通り家事の手伝いを終え、身支度も整えた。あとは眠るだけ、という状態だがどうにも眠くなれない。せっかくなら、前に見せてもらった夜光虫を見に行こうか。おもむろに立ち上がったオウの視界に、小さな明かりが入り込む。
(あれは……タイハク?)
ランプのほかに、なにか持っているようだが暗くてよく見えない。タイハクが歩いて行った先は、オージの家の近くにある小川の方だった。ふと湧いて出た好奇心に身を任せ、オウは後を追っていく。目的地はおそらく以前タイハクが夜光虫を見せてくれた場所だろう。道はなんとなく覚えているが、この暗さではその記憶も頼りない。木の葉の間から見えるランプの明かりだけを頼りに少女は歩を進めた。少しすればせせらぎの音が聞こえてくる。夜光虫はもう飛んでいないのだろう。暗くぽっかりと空いた頭上には、町明かりを受けてうっすらと浮かび上がる雲がある。
タイハクは小川を越えて奥へ進んでいるようだった。足音を隠すことすら忘れたオウは、彼の見ている物を確かめるべく身を乗り出す。その瞬間、顔に冷や水が飛んできて砕け散った。
「なんで…………?」
翡翠の瞳を丸くして、タイハクは柄杓を持ったまま固まった。
「あっ冷たぁ……ごめん、もう一回夜光虫が見れるかもと思って……」
「そういう……天気が悪くなったからもう飛ばないと思う。風もあるし」
そう話す彼の前には六つほど石が置かれていた。それぞれ同じくらいの大きさのものが等間隔に、丁寧に並べられている。清水が滴るそれは、よく手入れされているようだった。
「タイハクは?」
「日課」
素っ気ない返事に追及を憚られる。どう言おうか、考えている間にタイハクは空になった柄杓と手桶を置いて、オウへ向き直った。
「あれでよかったの?」
「な、なにが……?」
「持ってた物売ったんだろ? 手がかりになったかもしれないのに」
「……いいのよ。ただのアクセサリーだし」
そう言いつつ、オウは言葉を濁らせる。
「まぁ、居心地がいいのは分かるけど」
「ねえタイハクはどうしてここにいるの? おじさんとおばさんの子供ではないんでしょう?」
恐る恐る、気になっていたことを尋ねてみる。薄暗い空の下、月影によって浮かび上がったタイハクの横顔は鋭く冴え切っていた。短剣のような鋭さにオウは思わず息を飲む。
「俺が突然やってきて勝手に居座ってるだけ。本当はよくない」
「……どういうこと?」
その言葉の意図を理解できず、オウは思わず訊き返す。
「なんでもない。あんたには関係のない話だろ」
突き放す言葉にぐっと息を飲むが、彼の言うことは最もだ。己の現状を思えば思うほど、タイハクが身の上話をするに足る相手ではない。
「それより、俺はちょっと訊きたいことがあるんだけど。なんで看板の文字が読めたの? 字も分からないって、最初話してたって聞いたけど」
「それは……分からない」
「偶然か。よりによってあの文字を知ってたと」
「なにが言いたいの……?」
黙って青年はオウを見つめる。その鋭い視線と無言の圧力に、思わず少女は手を挙げる。
「──分かった、分かった。先に謝るけど、ずっと黙ってるつもりはないの。記憶が戻ってないのは本当よ。文字が読めないと嘘をついたのは事実。それは謝るべきね」
「なんでそんなことを?」
「文字が読めると、厄介なのに目をつけられるかもって言われたことが……あった気がするのよ。誰にって言われると、ちょっと覚えてないんだけど」
「はあ?」
「でも、あなたもでしょう?」
「俺は字が読めないけど」
「厄介なのに、目をつけられているって」
「ん? 待て、それはどこから……」
「タイハクも隠していることがあるんでしょ?」
丸くなった翡翠の瞳がこちらを凝視する。これまで一切の揺らぎが無かった彼の、初めて揺らいだ姿。
「──大月姫、月女神を殺そうとしたって。望月に歯向かうことをしたと」
さっと、薄闇の中で青年の顔色が変わったのが分かった。
「分かった、トリベノだな。アイツ、まだ諦めてなかったのか」
「タイハク、私もよ」
「…………は?」
「私も月を墜とすために来たの」
月光が陰る。止まっていた風が流れ始める。
「っ!?」
刹那、がばりとタイハクが手を上げた。咄嗟に身をかがめるオウ諸共、二人は地を転がる。光の矢が複数頭上を掠めていった。目を白黒とさせつつも、オウは辺りを見回す。襲撃者の姿はどこにも見当たらない。それはタイハクも同じらしい。二人は地に伏せたままじっと息を潜めた。
「さっすがー。反逆者サマは逃げるのが上手いな」
かわいらしい声と共に華奢な少女が姿を現す。タイハクは彼女のことを知っているのか、一瞬だけ顔を歪めたように見えた。初めて見る反応にオウは思わず息を飲む。彼女は量感のある黒髪を二つに括りにし、肩に流している。暗闇でも僅かな光を受ける瞳は、赤く妖しく輝いていた。風貌からして無法者の類だろうか、そう思えたのはこの一瞬だけだった。凶悪な笑みを彼女の左腕には満月の意匠が施された腕章があったからだ。
オウは恐る恐るタイハクの方を見るが、彼の表情はいつもと大差がないように見えた。ただどこか冷たく乾き切っているような──言い難い違和感は実感となって現れる。
襲撃者はどこからともなく小型ナイフのようなものを、複数取り出して構えた。それを合図にタイハクも応戦の姿勢を取る。
「アバニのところかおじさんのところへ!」
鋭い声を背に受けながら、オウは一心不乱に駆け出した。その隙を狙って投擲されたものを横に躱す。背後にあった木に当たったそれらは炸裂して風を起こした。
「っ、面倒な!」
大剣を手に突っ込んできた襲撃者をいなし、タイハクは暗い山道へ駆け出す。攻勢に出ない彼を煩わしく思ったのか、炸裂弾が帳のごとく横へ広く展開された。背後を一瞥した翡翠の瞳は鋭く細められる。
初弾は横に跳んで、次弾は木の後ろに回り込み、急坂へ飛び込んで躱す躱す躱す。最小限の動きは爆風範囲を掠めていくだけで、ダメージにはならない。
「アイツ、ラックと反射神経だけで全回避しやがった!」
最後、至近距離に飛び込んだ唯一の炸裂弾は、不発のまま地を跳ねた。




