第6話「重傷」‐①
闇を裂いて青白い月の手が伸びてくる。微かに震えたままの足で、その指先を躱し、いなしてやり過ごす。横に、前へ、前へ転がりながらただひたすらに攻撃をしのごうとする。斬って裂いた腕から真っ赤な血が噴き出す。怪物であっても血の色は同じなのか、頬にかかったそれを拭って嘆息を漏らす。
その隙に狙いをつけたのか、小さな星の子が無数に出現し、その身を弾けさせながらこちらへにじり寄ってきた。こちらを狙っているのだろう、流星の欠片は水面下を走る魚のように、目にもとまらぬ速さで足の間をすり抜けて行った。頭の横を、さっきまで己がいた場所を掠め砕けて散る。己の遥か前へ消えて行ったそれを認知したとき、遅れてやってきた感情が毛を逆立てた。
問いはとうにし飽きた。隣にいたはずの人物が消え、悲鳴が木霊する。必死に月の手に抗う左翼の声が、頭に響いて耳に残り続けている。右翼にいたはずの彼の声が全く違う場所から聞こえてくる。戦闘領域に突入してからどのくらい経ったのか。確かめようとした手は反撃のために引き金を引き続ける。反動に負けて、利き腕が小さく跳ねる。照準が、ずれた。
追撃を躱し、迫りくる白い手に目を奪われた。
静かに息を吐く。ゆっくりと瞼を上げて、手に触れた物を無意識に掴み上げる。指の間から零れ落ちる砂を見て肩の力が抜けた。ちくちくと、衣服の間に入り込んだ砂の刺激が思考を呼び覚ます。すぐ右隣では薄灰色の大きな毛玉が、少し離れた場所では少女が布に包っていた。
石造りの壁が四方を囲んでいる。それでようやく、己が建物の中にいることを理解する。先ほど掴んだ砂は、扉のない入口から吹き込んできたものだったらしい。
高い壁に据え付けられた小窓から見える外は暗いものの、日の出の兆しが感じ取れた。夜空に溶けそうなほど弱くなった星の輝きが見てとれる。深い呼吸音と共に緩やかに上下する大きな背を撫で、タイハクは身を起こした。緩められていたシャツのボタンを留め直す。二、三度手を握って小首を傾げる。
(二日は寝ていた……みたいだけど、どこも痛くない)
視界に欠けはない。深刻な負傷だったはずだが、己の体に違和感は全くと言っていいほどない。
(見えないだけで、もう駄目になっている可能性は十分あるけども──)
予感に身を任せ、タイハクは丸くなっていた少女に声をかける。何度か話しかければ眠たげな金の瞳がこちらを見た。
「なに……まだ暗くない…………?」
「悪い、どういう状況か知りたくて」
「あー…………え!?」
不意にがばりと少女は起き上がる。
「起きてるじゃん、どっこも痛くない!? 痒くもない!?」
伸びてきた手を押し返しながらタイハクは頷く。
「なぜか痛みも違和感も全くない。あんたがやったのか?」
「ま、まぁ……私だけど」
「魔法ってのはすごいな」
「魔法とは言ってないけど」
オウは気を悪くしたのか、食い気味に返す。
「違う?」
「……違わない。けど、あんまり得意じゃないから自信がなくて。本当に平気なんだ」
「まぁ、おかげさまで……二日間どうしてた」
「荷物に食料があったから勝手に食べたわ。それはごめん。馬は適当に歩き回って草を食べてたわね」
「あぁ……アバニはそうするだろうな」
彼女とて元は野生の馬だ。こちらでの生き方はよく知っているのだろう。オウも特に不調なところはないらしい。改めて周囲を見回して、この場所に目星をつける。この壁の色には見覚えがあった。
「ここは、あれか。塔の中か」
「そうそう。サンドワームから逃げてきたらここを見つけて……そのまま居座ってる感じ。ここってなんなの?」
「俺は知らない。けどここにはサンドワームは近づいてこないらしいな」
「どうりで……」
「本来は立ち入り禁止だけどな……警備もなにもないから、たまに寝泊まりしているヤツもいる」
空間の隅に転がる炭を見つけて、オウも「あー、そういう」と軽い相槌を打った。
「ところで、私は訊きたいことがあるの」
「訊きたいこと? あんたに言うことなんてなにも──」
「部屋にあった小瓶のことよ」
「こ、小瓶?」
思わぬ話題にタイハクは瞬きをする。そんなもの持っていただろうか。鈍い反応を寄越すタイハクにオウは口を曲げる。
「棚の引き出し二番目。革袋に入ってたけど、あれはどこで拾ったの」
「引き出し、二番目…………お前、俺の部屋に入ったのか」
「入ったもなにも、寝る場所を貸してくれてるでしょ。どこで見つけたの、あれ」
そういえば、とタイハクは顔を歪める。
「それは……覚えてない。いつの間にか持っていた」
「はあ?」
「あれがなんだって? お前のだったのか」
「そうよ。私はあれを探さないといけないの」
「悪いけど本当に知らない。力になれそうにないな」
きっぱりとそう言うが、オウは目を細めてさらなる追求を考える。
「……分かった。今すぐとは言わないわ。いずれ思い出してくれたらそれでいい」
「訊きたいことはそれだけ?」
「そうよ。あとは……どうでもいいわ。あんたからしたら幸い? 私も望月の敵だし」
例のことについて、オウはあまり話すつもりが無いらしい。不思議な態度に、タイハクは眉を顰める。
「待て、どうでもいいってどういうことだ。望月の敵って……魔法使いだとしても、静かに生きれば──」
「さっき望月の魔法使いと戦ったのよ。それに──」
すっと少女は立ち上がる。塔の入り口を塞ぐようにして立ってから、彼女はくるりと振り返った。
「私のすべきことは、あなたが成そうとしたこと」
「は…………?」
「私はあの月を撃ち落とす。この土地から大月姫という存在を抹消する」
なにを馬鹿なことを、と言いかかって青年は押し黙る。脳裏に浮かんだのはあの馬鹿げた御伽噺だった。
『赤髪の魔法使いがこの国を救ってくれる』
──そうだ。オウは決して赤髪ではない。けれども、差し込む光が照らし出す柔らかな髪は、血潮の如き鮮やかな赤色に輝いている。
「つまり……女神を殺すと」
「女神も、サンドワームも。全部よ。それが私が思い出したこと」
「だから、俺のことは気にならないと?」
「そうね。というか、私があなたの罪を問うのは違うでしょう。それは私のやるべきことじゃない。タイハクが気にするのはそこ?」
「あ、あぁ……いや、お前の望みはなんだ」
「帰って」
「は?」
「おばさんと、おじさんに謝って。あんまりだと思う」
思わぬ望みの言葉に青年は言葉を詰まらせた。
「まさか、なにも思ってないなんて言わないわよね。例え守るためって分かっていても、もっと言葉を尽くすべきだわ」
「俺が……戻って謝ったところで、あの人たちを傷つけたことに変わりはないよ。それに……今すぐ戻ると、逆に迷惑だ。あの人たちを、俺の罪に巻き込むわけにはいかない、でしょ。俺に掛かってる金額は安くはないらしいし」
タイハクの言葉に、オウは瞳を伏せる。
「そうね。確かに……おじさんとおばさんを困らせるのは、私だって本望じゃない。けど約束して。必ず、あの二人にもう一度会って話をしてほしいの。今すぐじゃなくていい。用事を済ませた後でも十分なはずよ」
「──善処する。二人の安全が最優先だ」
ひとつ、深く頷いてタイハクは申し出を受け入れた。




