第二十二話「夢を裂く牙」
闇より暗き闇――
『冥夜界・無明』
その闇に、さらに“深さ”があった。
光がないのではない。
存在そのものが沈んでいる。
その時だった。
――ズルリ
影が、動いた。
音も、匂いも、気配すらない。
ただ“影だけ”が、現実に干渉する。
「……っ?」
哲西の足元が、沈む。
「なっ――!?」
影が、口を開いたように広がり――
そのまま、呑み込む。
「――地獄界・冥夢想」
暗く、低い声が落ちてきた。
落ちた先は――水だった。
「……ここは……!」
冷たい水圧。息ができない。
そして、目の前に現れる影。
水神の鬼――蒼濤。
「また……お前か!」
だが、違う。
前に戦った“蒼濤”ではない。
圧が違う。
存在が、重い。
「減ったな」
低い声。
哲西の身体が、水中で沈む。
(核を探さないと……!)
精霊を放つ。
白い犬の精霊が、水中へと拡散する――
だが。
戻ってくる。
何も見つけられずに。
「……え?」
(そんなはず……)
(前は確かにあった……!)
焦りが、肺を締め付ける。
息が――持たない。
(どうする……どうする……!)
(こんな時……桃太郎なら)
――冷静に見ろ
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。
(矢掛なら)
――仮説を立てる
「これは……幻影……?」
周囲を見る。
(幻なら……本体がいるはず)
探る。
嗅覚。聴覚。
だが――
「……ない」
獣人化。
筋肉が膨張し、感覚が研ぎ澄まされる。
それでも――
「……わからない……!」
(じゃあ……神庭なら)
――オレ様、天才
「……ダメだ、あれは当てにならない……!」
その瞬間。
思考が、止まる。
そして。
一つの答えに辿り着く。
「……違う」
静かに呟く。
「“いない”んじゃない」
「“存在してない”んだ」
水の中。
自分しかいない。
なのに、敵はいる。
「存在しないのに、見えてる……」
一瞬の沈黙。
「――夢だ」
哲西は、自分の腕に噛みついた。
「――ッ!!」
激痛。
血が、水に広がる。
「……痛い……!」
だが。
景色が、歪む。
水が、崩れる。
蒼濤が、割れる。
そして――
目が、覚める。
目の前にいたのは――
影ではない。
そこに座していたのは、
骨だけの老人。
皮膚はない。
肉もない。
乾いた骨が、ぎしりと鳴る。
眼窩の奥にだけ、暗い光。
その周囲に――
無数の“影の牙”。
「……目覚めたか」
擦れるような声。
「惜しいな」
骨の顎が、ゆっくりと開く。
「あと少しで、喰えたものを」
哲西の背筋に、冷たいものが走る。
「お前……何だ」
老人は、静かに笑った。
「我が地獄界――『冥夢想』」
影が、ざわめく。
「貴様の記憶に潜り込み」
「最も深い“恐怖”を育てる」
骨の指が、哲西を指す。
「そして――」
影の牙が、開く。
「熟したところで」
「魂ごと喰らう」
哲西は、息を整える。
「……じゃあさ」
静かに言う。
「なんで、まだ食べてない」
沈黙。
骨が、軋む。
「簡単だ」
老人は首を傾ける。
「恐怖が、足りん」
「未熟な魂は、不味い」
その瞬間、理解する。
(こいつ……)
(直接戦う力は――)
「弱いだろ」
空気が止まる。
影が、暴れる。
「違う」
低い声。
「我は狩人だ」
「力など要らぬ」
「恐怖こそが――刃」
空間が、崩壊する。
現れる。
鬼ヶ島。
門番の巨鬼。
圧倒的な質量。
「……こいつ……!」
哲西は歯を食いしばる。
「一人じゃ勝てない……!」
巨鬼が、動く。
地面が砕ける。
哲西は踏み込む。
斬る。
弾かれる。
身体が浮く。
(ダメだ……!)
だが。
「……なら!」
体を捻る。
蹴りを叩き込む。
「落ちろ!!」
巨鬼を海へ叩き落とす。
轟音。
だが。
「無駄だ」
次の敵。
また現れる。
終わらない。
(核がない……!)
(全部、夢……!)
「どうだ?」
骨の声が響く。
「勝てぬ敵に、追われる気分は」
哲西は、息を吐く。
そして――笑う。
「わかったよ」
一歩、前へ。
「お前のやり方」
影が、ざわめく。
「怖がらせて」
「弱らせて」
「食べる」
静かに言う。
「それだけだろ」
骨が、軋む。
「だったら――」
哲西の体が、光る。
精霊が、集まる。
「ぼくは――」
十の光。
「怖がらない」
骨格が変わる。
筋肉が膨張する。
白銀の毛が、爆ぜるように広がる。
「オレが――」
牙が、光る。
「喰われる側じゃねぇ」
「十体憑依――銀狼」
老人が、初めて揺らぐ。
「なぜだ……」
「なぜ恐れぬ……!」
哲西は、低く言う。
「簡単だ」
一瞬で距離を詰める。
「守りたい奴がいるからだ」
拳が、影を砕く。
「お前の餌になる暇なんかねぇ」
影の牙が、襲いかかる。
だが――
銀狼が、吠える。
光が、爆ぜる。
影が、焼ける。
「これで終わりだ!!」
精霊が収束する。
「魂ごと――返してやる!!」
「浄破咆哮!!!」
それは音ではない。
存在そのものを浄化する咆哮。
骨が、砕ける。
「……馬鹿な……」
老人の声が、崩れる。
「恐怖を……持たぬ……だと……」
最後に。
かすかに笑った。
「……美味そうな魂だったのだがな」
塵のように、消えた。
闇が、晴れる。
静寂。
哲西は、その場に膝をつく。
荒い呼吸。
震える身体。
だが――
その目は、もう揺れていない。
「……ぼく」
静かに呟く。
「喰われなかったな」
少しだけ笑う。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「ちゃんと――生きてる」
拳を握る。
確かな実感。
「……ぼく」
小さく、でもはっきりと。
「ちょっと、強くなったかも」
闇の名残が、風のように消えていく。
その背に――
確かに“覚醒”が宿っていた。




