第十二話―鬼ヶ島―
柔らかなぬくもりの中で、意識がゆっくりと浮かび上がる。
胸に包まれるような感触。
頬に触れる温度。
規則正しく響く、かすかな心音。
――誰かに、抱かれている。
その安らぎとは裏腹に――
胸の奥には、拭いきれない不安が残っていた。
「……よかった。目が覚めて」
頭上から、やさしい声が降ってくる。
美咲は、ゆっくりと目を開いた。
視界の端に、涙の跡が滲む。
どうやら、夢にうなされていたらしい。
「……ここ……」
身体を起こす。
見知らぬ空間。
洞窟のように開けた広間。
岩の裂け目からは、青い海が覗いている。
潮の匂いが、かすかに流れ込んでいた。
「どこ……?」
かすれた声。
「ここは鬼ヶ島。鬼の棲む島だよ」
軽やかな声が返ってくる。
振り向けば、そこに二人の少女がいた。
ひとりは、すぐ傍にいた少女。
やや赤みを帯びた長い髪を、丁寧に束ねている。
ほどけば膝に届きそうなほどの長さ。
白い肌。
ほんのり染まった頬。
大きく円らな瞳。
幼さを残すその顔立ちは、どこか儚く、繊細だった。
「……真備」
もう一人が言う。
「で、あたしが日生」
短く切りそろえた栗毛。
日に焼けた褐色の肌。
はっきりとした目鼻立ち。
その立ち姿には、迷いのない強さがあった。
「……あ」
美咲は、ようやく気づく。
自分が今、真備の膝に頭を預けていたことに。
慌てて身を起こすと、真備は少しだけ視線を逸らした。
「大丈夫……? ずっと泣いてたよ」
その言葉に、胸の奥がかすかに軋む。
――夢。
思い出せそうで、思い出せない。
けれど確かに、大切な何かだった。
「私は……美咲」
ぽつりと名乗る。
「夢で未来が見えるの。……たまにだけど」
静かに続ける。
「“見先”って書いて、美咲。母がつけてくれた名前」
その響きに、少しだけ誇りと、少しだけ寂しさが混じる。
「正夢、か……」
日生が腕を組み、興味深そうに頷いた。
そのとき――
閃くように、記憶が戻る。
「あ……!」
血。
叫び。
崩れ落ちる背中。
「桃太郎が……!」
声が震える。
自分を庇い、倒れたあの姿。
(死んだかもしれない)
その現実が、遅れて胸を締めつける。
涙が、零れ落ちた。
――そのとき。
ひらり、と影が落ちる。
一羽の鳥が、洞窟の裂け目から舞い込んできた。
軽やかに羽ばたき、三人の前に降り立つ。
真備が、静かに目を閉じる。
小さく息を吸い――
空気が変わる。
鳥が、首を傾げる。
まるで、言葉を持つかのように。
「……大丈夫」
真備が、静かに言った。
「真備……すごい」
思わず、美咲が呟く。
「鳥と話せるんだ……」
「うん……そうだけど」
照れたように笑う。
その仕草に、美咲は小さく首を振った。
「私も……少しだけ、できる」
「ほんと?」
ぱっと、真備の表情が明るくなる。
「一緒だね」
その一言に、わずかに空気が和らぐ。
日生が、くつくつと笑った。
「とんでもないのが揃ってきたね」
その言葉に、美咲はふと顔を上げる。
「夢でね……」
真備は、少し迷うように視線を落とし、口を開いた。
「空を、ずっと昇っていくの」
「大地が青く丸くなって、夜になって……星が、いっぱいで」
あまりにも鮮烈な光景。
遠く。
どこまでも遠く。
身体から魂が離れていくような感覚。
「私は……行ける」
真備が、静かに言う。
「夢の中で。どこまでも遠くに」
その言葉に、美咲の胸が強く打つ。
そして――
もう一つの確信が、浮かび上がる。
「桃太郎……生きてる」
迷いのない声だった。
「三人の仲間を連れて、ここに来る」
「三人……?」
「神様の力を持った人たち」
空気が、張り詰める。
日生が、ゆっくり息を吐いた。
「……なら、その桃太郎ってやつ、ただ者じゃないね」
「でも……来たら、また……」
言葉が、途切れる。
胸が、締めつけられる。
「――また、誰かが死ぬ」
声が震える。
また、失うかもしれない。
未来を、見てしまうかもしれない。
「……逃げるしかない」
そう呟いた、その瞬間――
奥の方から、ざわめきが響いた。
鬼たちの怒号。
次の瞬間――
地面が、震えた。
「何をしている。巫女を泣かせるな」
冷たい声。
空気が、凍りつく。
現れたのは、一人の女。
銀の鎧。
般若の面。
「我が名は――般若」
その瞬間。
五体の鬼が、地に伏した。
あまりにも、一瞬。
血の匂いが、遅れて漂う。
般若は、ゆっくりと美咲の前に立つ。
その視線が、貫く。
身体が、動かない。
逃げ場が、ない。
「……いい目だ」
低く、呟く。
「予言の巫女、か」
美咲は、思わず口を開いた。
「……角、ないの?」
一瞬の静寂。
やがて、わずかに笑う。
「すべての鬼に、角があるわけではない」
そして――
「本当の角は、心の中にある」
背を向ける。
そのまま、去っていく。
残された静寂。
美咲は、拳を握った。
「……真備」
決意の声。
「桃太郎に、伝えたい」
自分が生きていること。
ここが鬼ヶ島であること。
そして――
来てはいけないかもしれない、ということを。
真備は、小さく頷く。
その場に座り込み、目を閉じる。
意識が、沈む。
やがて――
その存在が、ふっと薄れる。
その瞬間。
美咲には“見えた”。
魂が、鳥へと重なる。
鳥が、大きく羽ばたく。
それは、もうただの鳥ではなかった。
「……入ったんだね」
美咲が、呟く。
鳥は、一度だけ旋回し――
空へ。
風を裂いて。
高く。
さらに高く。
――まるで、運命を越えるように。
青の彼方へ。
想いを乗せて。
――桃太郎のもとへ。




