第9話:運河の凶変
自由の味は、少しだけ塩気と鉄の匂いがした。
王都ルミエールの下町、港湾区へと続く運河沿いの通り。
フランシアは泥跳ねのついた革靴で、石畳をリズミカルに蹴った。
重厚なベルベットの衣擦れの音もなければ、背後から付き従う近衛兵の鋭い靴音もない。すれ違う
荷揚げ人足も、林檎を売る屋台の老婆も、彼女を「第一王女」として畏怖し平伏することなどない。
ただの、神聖の森からやってきた素朴な娘として通り過ぎていく。
「ふふ......あははっ!」
思わず零れた笑い声が、運河の濁った水面に弾けた。
大湊から吹き抜ける湿った海風が、ほどかれた黒髪を乱暴に弄ぶ。サロンの整髪油で固められてい
ない髪が、風を孕んで踊る感触。誰の視線も突き刺さらない、ただの「無名の誰か」になれた歓び
が、フランシアの胸を熱く満たしていた。
(あと一時間......もう少しだけ、あの外海へ続く波止場の先端を見てから戻りましょう)
約束の夕暮れまでは、まだわずかに間がある。
フランシアは歩調を緩め、運河に架かる古い石橋の袂へと足を踏み入れた。夕刻の荷揚げ作業を終
えた人通りはまばらで、潮の引いた水路からは青黒い海水の匂いが立ち上っている。
その時だった。
――ガタガタガタッ、ドカドカドカッ!
背後の石畳を乱暴に削り取るような、異様な轟音が響き渡った。
振り返ったフランシアの菫色の瞳に、飛び込んできたのは漆黒の大型馬車だった。
家紋も紋章も塗り潰された無地の車体。二頭の巨馬は口から泡を吹き、狂ったように前脚を振り上
げている。御者台の男は深い鍔の帽子を目深に被り、容赦なく鞭を振り下ろしていた。
狭い運河沿いの路地。
馬車は減速するどころか、石橋の袂に立つ「麻服の少女」めがけて、一直線に突進してくる。
(......え? 止まりなさい、無礼な......っ!)
王女としての習性が、逃げるべき刹那の判断を一瞬遅らせた。
だが、ここは青薔薇の離宮ではない。御者の男の双眸に宿っていたのは、暴走の動揺などではな
く、標的を轢き潰すための、氷のような殺意だった。
「ひっ......!」
フランシアが身を翻そうとした瞬間、巨馬の鉄の蹄が目前に迫った。
凄まじい衝撃。
車軸の角がフランシアの華奢な脇腹を容赦なく薙ぎ払い、骨が軋む鈍い音が鼓膜の奥で弾けた。
身体が宙に浮く。
激痛と浮遊感の中、世界が不気味なスローモーションへと引き延ばされた。
舞い散る黒髪の向こう、石橋の欄干の影。
そこに、音もなく座り込んでいたひとつの影が、フランシアの網膜に焼きついた。
――右目に琥珀石の義眼を嵌め込んだ、痩せた黒猫。
ニクス。
黒猫は逃げ惑うこともなく、冷ややかに、嘲弄するように細めた琥珀の瞳で、宙を舞うフランシアを
じっと見つめていた。
ドボン――ッ!
重く鈍い水音が上がり、夕暮れに染まる運河の底へ、麻服の少女は泡を吐きながら呑み込まれて
いった。
外海へと引き波が渦巻く、冷たく暗い濁流の中へと。




