第8話:夕暮れの約束
粗末な麻のブラウスの裾を翻し、フランシアは廃礼拝堂の苔むした敷石の上で、くるりと身軽に舞ってみせた。
鯨骨のコルセットから解き放たれたその胸が、大きく、飢えたように埃っぽい空気を吸い込む。
「信じられない......。風が、こんなにも軽いのね。皮膚が、ちゃんと呼吸をしているわ」
高慢な王女の冷徹な仮面は剥ぎ取られ、そこにあったのは、初めて鳥籠の外へ飛び出した雛鳥のよ
うな、無防備で眩しい笑顔だった。
だが、その軽やかな姿とは対照的に、ミシャは重厚なベルベットのドレスに両足を縫い止められたように立ち尽くしていた。何層にも重なるペチコートと針金入りの裾が、まるで鉄の鎖のように下半身にのしかかる。
「フランシア......本当に、夕暮れには戻るのね?」
「ええ、当たり前でしょう。大奥様の晩餐の鐘が鳴る前には、必ずこの礼拝堂へ駆け戻るわ」
フランシアはミシャの元へ駆け寄ると、その両手をきゅっと握りしめた。
王女の掌は、手袋を脱ぎ捨てたことで初めて触れ合う、柔らかく冷たい肌だった。対して、ミシャの指先は数千、数万の針を通してきた硬い角質と、無数の小さな傷跡に覆われている。
「待って。ひとつだけ、絶対に約束して」
ミシャは菫色の瞳を真っ直ぐに見据え、強い語気で言い含めた。
「森の奥......私の家には、絶対に近づかないで。工房の周りには三人の保護者がいて、彼女たちはとても耳ざといの。あなたが足を踏み入れれば、すぐに私じゃないと見抜いて大騒ぎになってしまうわ。街のカフェや広場のベンチで、静かに過ごしていて」
「ふふ、わかっているわよ。私はただ、誰も私を知らない街の雑踏を歩いて、波止場から外海の水平線を眺めてみたいだけ。誰の目にも怯えずに、普通の娘としてお茶を飲んでみたいだけなの」
フランシアは小鳥のように首を傾げ、ミシャの頬に自らの額をそっと寄せた。
互いの体温が触れ合い、同じ形の睫毛が微かに擦れ合う。
「ありがとう、私の純白の白百合。夕暮れの鐘が鳴るまで、離宮の部屋で本でも読んでいて。誰もあなたを疑いはしないわ」
フランシアは身を翻し、崩れかけた礼拝堂の扉を押し開けた。
差し込む眩い陽光の中に、麻服をまとった少女の細い背中が溶けていく。まるで野に放たれた鹿の
ように、軽やかな足取りで王都へと続く街道の雑踏へ駆け出していった。
静まり返る廃礼拝堂。
埃の舞う冷たい空気の中、ミシャは一人取り残された。
(夕暮れまで......ほんの、三時間か四時間......)
自分に言い聞かせるように、ミシャは胸元に手を当てた。
だがその瞬間――ドクン、と心臓が跳ね上がった。
まるで、胸の奥底に氷の刃を突き立てられたような、鋭く、息の詰まる悪寒。
理由のわからない戦慄が、背筋を駆け抜ける。
――だめ。
――行かせては、いけなかった。
森の野生が告げる警鐘か、それとも血の底から湧き上がる叫びか。
ミシャは重いドレスの裾を乱暴に持ち上げ、礼拝堂の扉へと駆け寄った。
「フランシア......っ!」
外へ叫ぼうとしたその声は、虚しく木々の間に吸い込まれた。
木漏れ日の揺れる街道の先には、もう、あの麻服の少女の影はどこにも見当たらなかった。




