第68話:針と火薬の協奏曲
扉が閉ざされた瞬間、フランシアが卓を蹴り倒すような勢いで立ち上がった。
「あの毒蛇め……! ガッシュの船にまで嗅ぎ回らせて……!」
激昂した王女の腕が、卓上に置かれていた羊皮紙の巻物を薙ぎ払う。
宙を舞った巻物は敷石の上へと叩きつけられ、太后宮の封蝋が無残に砕け散った。
肩で荒い息を吐くフランシアの瞳は、剥き出しの焦燥と怒りで真紅に濁っている。海軍省を動かして黒鴉号を焼き払う――もし水門の前に控える最大の脱出路が塞がれれば、三週間後の儀式は、ただの断頭台への階段と化す。
「取り乱してはなりません、フランシア様」
茶で汚れ、陶器片の転がる床から、ミシャが音もなく立ち上がった。
乱れた灰色のエプロンを優雅に払い、落ちた羊皮紙を拾い上げる。その所作には、先刻まで床に額を擦り付けていた屈辱の気配など微塵も残っていない。
「海軍省の上奏は、単なる揺さぶりです。本当に焼き払えるのなら、あのような当て擦りを口にする前に、太后は疾うに火矢を放たせておりますわ」
「……何?」
フランシアが苛立ちを露わにしてミシャを睨みつけた。
「黒鴉号は四層甲板、百門の砲を備えた重装甲ガレオン。水深の浅い運河口に陣取られた以上、王国海軍の小型ガレー船では近づくことすら叶いません。下手に火を放とうとすれば、運河沿いの王都下町ごと砲撃で灰にされる――その恐怖を一番弁えているのは、他ならぬ海軍卿ご自身です」
ミシャは拾い上げた羊皮紙を広げ、カリッサが残していった「大礼服の仕様書」へと視線を落とした。
菫色の瞳に、針子特有の冷徹な計算が宿る。
「カリッサが狙っているのは、ガッシュ殿を挑発して先制攻撃を仕掛けさせ、反逆の口実を作ること。そしてもう一つは……この大礼服の仕立てを通して、わたくしたちの神経をすり減らし、隙を突くことです」
「この布切れが、何だっていうのよ」
フランシアが吐き捨てるように仕様書を覗き込んだ。
「純白の絹縮緬に、太后宮の象徴たる白百合を三千本の金糸で総刺繍。……一人で縫い上げれば、三週間、一睡の余力も残らぬ過酷な賦役です。針目が一つでも違えば処刑。ですが……」
ミシャの唇の端に、かすかな、そして氷のように怜悧な笑みが浮かんだ。
「これは、天が与えた抜け穴でもございます」
「抜け穴……?」
「大礼服の仮縫いと採寸を名目にすれば、わたくしは昼夜を問わず、公然と貴女様の寝室へ出入りできます。太后の監視の目をかいくぐり、二人で額を突き合わせて脱出の手筈を縫い合わせる、完璧な口実となるのです」
フランシアの喉が、微かに鳴った。
死刑宣告として投げつけられた無理難題を、手玉に取るように自らの武器へと反転させる針子の胆力。
先刻までの焦燥が嘘のように引いていき、フランシアの双眸に歪んだ興奮の光が戻ってくる。
「……ふん。相変わらず、可愛げのない女ね」
フランシアは短剣の鞘を指先で弾き、ミシャの至近距離へと歩み寄った。
「いいわ。あの毒蛇と老いぼれに、最高の晴れ着を縫ってやりなさい。……その大礼服の裾に、ガッシュの大砲に火をつける導火線を隠してね」
「仰せのままに」
ミシャが静かに会釈したその時――部屋の外、中庭の方角から、突如として甲高い喚き声と複数の足音が響き渡った。
「道をあけなさい! 典礼省の検分ですわ!」
先刻、短剣に脅されて逃げ惑ったはずのエレノアの声。
だが今度は一人ではない。その後ろには、典礼省の腕章を巻いた屈強な近衛兵たちの重い軍靴の音が混じっていた。
回廊での屈辱を晴らすべく、今度は「公的な権力」を笠に着て、即座に牙を剥き直してきたのだ。




