第67話:毒の残香
足音は、扉のすぐ外でぴたりと止まった。
ミシャとフランシアの視線が、瞬時に交錯する。
言葉はなくとも、息を吸う間すら惜しむ阿吽の呼吸。
ミシャは音もなくフランシアの手を放し、敷石の上へ両膝をついた。乱れた灰色の裾を整え、額を床すれすれまで落とす「平伏の姿勢」へと滑り落ちる。
同時にフランシアは卓上の薬草茶のカップを乱暴に床へ叩きつけた。
ガシャン!
陶器が砕け散り、まだ温かい茶がミシャの灰色のエプロンを茶色く染め上げる。
「何が薬草茶よ! ぬるくて舌が爛れるわ、この間抜け! 喉元を掻っ切られる前に、その鈍間な指を切り落としてやろうかしら!」
激昂した王女の金切り声が、密室の静寂を暴力的に引き裂いた。
その罵声に重なるように、扉の真鍮ノブが外からゆっくりと回された。
ギィ……と油の切れた蝶番が軋み、隙間から滑り込んできたのは、黒衣の修道女――カリッサだった。
手には、太后宮の刻印が押された羊皮紙の巻物。
銀の十字架を胸元で揺らし、床に散らばる陶器片と、濡れた床に額を擦り付けるミシャを、値踏みするように見下ろしている。
「あらあら……ずいぶんと荒々しいお目覚めでございますね、フランシア殿下」
カリッサの声は、冬の朝露のように冷たく澄んでいた。
部屋の中に漂うわずかな潮風の匂い――ガッシュの黒鴉号から持ち帰られた微かな塩の気配を、修道女の尖った鼻先が微かに捉え、鼻腔をひくつかせる。
「シスター・カリッサ」
フランシアは卓の端に腰掛けたまま、黒い短剣の鞘を指先で弄び、不機嫌そうに眉を跳ね上げた。
「ノックもなしに入ってくるとは、いつから修道女は王女の部屋の鍵番になったのかしら?」
「失礼をいたしました。大奥様より、急ぎ殿下にお伝えせねばならぬ慶事の沙汰がございましたので」
カリッサは一歩踏み込み、床の陶器片の破片を、絹靴の底で無慈悲に踏み砕いた。
ジャリ、と嫌な音がミシャの耳元で響く。
「大聖堂での新月の婚儀、その聖水拝受の儀において、殿下が身に纏う大礼服の採寸を、典礼省の筆頭裁縫師ではなく……そこに侍る下賤な小鳥に任せよとの、大奥様の慈悲深い思召しにございます」
ミシャは床に額を伏せたまま、思考を巡らせた。
王族の最高儀式たる大礼服の仕立て。本来ならば宮廷御用達の工房が総出で数ヶ月をかけて縫い上げるそれを、地下に幽閉された侍女一人に命じる。
名誉などではない。
仕立て損じ、あるいは針目の乱れを口実に、婚儀の直前にミシャを公開処刑するための、太后とカリッサが仕掛けた明確な「罠」だった。
「……ふん」
フランシアは短剣の柄頭を弄びながら、冷笑を浮かべた。
「大奥様も酔狂なことね。こんな森育ちの野良犬に、私の身体を飾らせようというの? ……いいわ。針目を一目でも違えたら、その場で指を一本ずつ削ぎ落としてやる口実ができるというものよ」
「ええ、まさに殿下の仰せの通り。大奥様も、殿下のその厳格なるお心映えをお喜びになるでしょう」
カリッサの深紅の唇が、鎌首をもたげる蛇のように吊り上がった。
修道女はミシャの頭上へと歩み寄り、冷え切った指先で、ミシャの黒髪の毛先をわずかにすくい上げた。
「聞こえたかしら、小鳥さん。三週間後の新月までに、金糸と白百合の刺繍を施した純白の大礼服を、完璧に縫い上げること。……もし一筋の糸でも解ければ、あなたのその細い首が、祭壇の前の敷石を転がることになりますわ」
髪を弄ぶ指から、微かに漂う沈静草と毒キノコの残香。
ミシャは微動だにせず、床の冷たさに耐えながら、澄んだ声で応えた。
「……謹んで、大奥様と殿下の仰せのままに」
「よろしい」
カリッサは満足げに手を離し、修道服の裾を翻して部屋の出口へと向かった。
だが、扉を跨ぐ寸前、修道女はふと足を止め、振り返ることなく背中で言葉を落とした。
「そうそう、フランシア殿下。……運河口に投錨した黒い海賊船について、海軍省が太后陛下へ上奏を行いましたわ。『速やかに包囲し、焼き払うべきだ』と。……三週間後まで、あの黒い鴉が水面に浮かんでいられるとよろしいですけれど」
嘲笑を残し、修道女の姿が廊下の闇へと消えた。
扉がバタンと閉ざされた瞬間、フランシアの握る短剣の鞘が、軋むほどの音を立てて震え始めた。




