第66話:潮風の密室
離宮の王女寝室の扉が重く閉ざされ、真鍮の閂が落とされた。
外の回廊に漂っていた令嬢たちの香水の残香は遮断され、部屋の中を満たしたのは、フランシアの衣服に染み付いた冷たい塩の匂いだった。
ミシャは手元を乱すことなく真鍮の盆を大理石の卓上へ下ろし、銀のポットから白磁のカップへ薬草茶を注いだ。湯気とともにカモミールとレモングラスの清涼な香りが広がる。
――バサリ。
背後で、乱暴にマントが脱ぎ捨てられる音がした。
フランシアは卓上の椅子に深く身を沈めるでもなく、卓の端に腰掛け、カップを取るでもなくミシャの顔を睨みつけた。
その瞳には、先刻回廊で見せた猛禽の凶暴さと、夜に見せる怯えた幼子の眼差しが、危険な比率で混ざり合っている。
「……殺されかけるところだったくせに、相変わらず澄ました面ね」
「盆の裏に飾り針を忍ばせておりましたので、喉元を突く準備はできておりました」
ミシャは淡々と答え、冷めぬうちにカップをフランシアの指先が届く位置へ滑らせた。
嘘偽りのない事実。もしフランシアが短剣を投げ込まなければ、エレノアの手首の腱は、ミシャの指先によって音もなく切断されていたはずだった。
フランシアは鼻を鳴らし、苦々しげに息を吐いた。
「生意気な口ばかり。……あの豚ども、典礼尚書の親父が太后の機嫌を取るためにけしかけたのよ。新月の婚儀の差配を握る典礼省にとって、私とクロードが正式に結ばれ、太后が絶対の権力を確立するのが一番都合がいい。だから、その前の『掃除』としてお前を始末して手柄にしようとしたのね」
「その典礼省の動き、海軍省の視察で耳になさいましたか?」
ミシャの問いに、フランシアの双眸が鋭く細められた。
卓上の黒い短剣の柄頭――銀の髑髏と鴉の意匠が、部屋の燭光を鈍く反射する。
「……あいつに会ってきたわ」
フランシアの声が、ぐっと低く沈んだ。
周囲の壁に耳を澄ませるように視線を巡らせてから、ミシャの耳元へだけ届く掠れた声で囁く。
「大運河の河口、黒鴉号の船室でガッシュと話をつけてきた。あいつの船の大砲は、新月の夜の干潮に合わせて運河の水門へ照準を合わせている。私が水門の内側の巻き上げ機を破壊すれば、あの黒い怪物が宮廷の喉元まで突っ込んでくる手筈よ」
「……世界最強の軍船を、王城の堀へ引き入れるおつもりですか」
「そうよ。あいつは底知れない男だけれど、交わした約束は違えない。……外海で私を拾った時も、あいつは煙管を吹かしながら、ふざけた顔で言ったわ。『王女の首を差し出せば金になるが、生かして玉座を奪い返させれば国が買える』ってね。ふん、欲の皮の突っ張った強欲者を気取って、虫酸の走るような大嘘を」
フランシアの唇に、乾いた、だがどこか通じ合っている者特有の冷笑が浮かんだ。
「あいつが欲しいのは金でも玉座でもない。ただ、誰の法にも縛られず、海をどこまでも気ままに泳ぐための自由だけよ。国を買うなんて戯言、自分の気まぐれに付き合わせるための口実に決まっているわ。……それでもあいつの船と大砲は本物よ。あの男の気まぐれを、太后の檻を灰にするための火薬として利用してやるの」
海賊騎士ガッシュ。
自由の風を追いながら、自らの掟と退屈しのぎのために王女の手を取った海の怪物。
ミシャは、フランシアの細い指先がカップの縁を強く握り、白く強張っているのを見つめた。
強がりを並べ立てながらも、その皮膚は死線を綱渡りする緊張で冷たく湿っている。
「フランシア様」
ミシャは一歩歩み寄り、冷え切った王女の指先に自らの手を重ねた。
「水門を壊すだけでは足りません。太后宮の地下金庫に眠る『王家の原簿』……十九年前の記録を奪わねば、外海へ逃げても貴女は謀反人として追われ続けます」
「原簿……?」
フランシアが眉を跳ね上げた。
「ええ。クロード卿より、金庫の主鍵の複製を取り付ける手筈を整えました。……新月の夜、わたくしたちが鳥籠を食い破るための針目は、すでに揃いつつあります」
クロードの名が出た瞬間、フランシアの瞳に一瞬だけ昏い嫉妬がよぎった。
だが、すぐにその感情を噛み殺し、王女はミシャの手を逆さに強く握り返した。爪が食い込むほどの、痛烈な力。
「……いいわ。原簿も、玉座も、何もかも奪い取ってやる。あの老いぼれが敷いた絨毯を、私とお前で血の海に染めてやるのよ」
歪んだ共犯の熱が、密室の冷気を灼いていく。
だがその時、重厚な扉の向こう――廊下の敷石から、かすかに引きずるような足音が近づいてくるのを、二人の耳が同時に捉えた。




