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血と薔薇の離宮  作者: 秦江湖


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第65話:猛禽の爪先

令嬢たちの香水混じりの手が、ミシャの灰色の肩布へと触れようとした刹那――。


――ヒュッ、と。


空気を裂く鋭利な風切り音が、回廊の大理石を震わせた。


ドンッ!


「キャッ!?」


耳を劈く金属の激突音とともに、エレノアのすぐ足元の敷石へ、漆黒の短剣が深々と突き立った。

刃渡り一尺あまりの、無骨で分厚い刀身。刃文には波打つ刃こぼれの跡が刻まれ、柄頭には外海の荒くれどもが好む黒鮫皮が巻かれている。

宮廷の装飾短剣ではない。人肉を切り裂き、骨を砕くために鍛え上げられた、本物の血塗られた凶器。


切り裂かれた菫色のフリルドレスの裾が、パラパラと石畳の上へ散る。

エレノアは腰を抜かし、無様に尻餅をついた。


「な、な……っ!?」


取り巻きの令嬢たちが悲鳴を上げて凍りつく中、回廊のアーチの向こうから、冷たい軍靴の音がカツリカツリと近づいてきた。


「私の耳に届いたのは、羽虫の羽音かしら。……それとも、喉笛を裂かれたがっている豚の鳴き声?」


歩み出てきたのは、潮風の匂いを纏った真紅の姿――王女フランシアだった。

サロンで整えられたはずの長い金髪は乱雑に後ろで束ねられ、身に纏うのは王族の正装ではなく、海軍将校の黒い革胴衣に真紅のマント。

腰の革帯には、突き刺さった短剣の鞘が空のまま揺れている。


「ひ、姫様……!?」

エレノアは床に這いつくばったまま、震える手で乱れたドレスを押さえた。

「な、何をなさるのですか! 私たちはただ、大奥様の名代として、この泥棒猫に身の程を弁えさせようと――」


「大奥様の名代?」


フランシアはエレノアの前で立ち止まると、冷酷な光を宿した菫色の瞳で見下ろした。

その足先が、無造作に敷石から短剣を引き抜く。

抜き放たれた黒刃の切っ先が、流れるような所作でエレノアの青白い喉元へと突きつけられた。


「ひっ……!」


皮膚の表面を冷たい鋼がかすめ、一筋の赤い血の玉がぷつりと浮かぶ。

フランシアの顔に浮かんでいるのは、王族の気品ではない。

海賊たちと肩を並べて生き血を啜ってきた猛禽の、剥き出しの狂気だった。


「勘違いするんじゃないわよ、寄生虫ども」


低く、地這うような声音が、エレノアの耳元に落とされる。


「この女は私の獲物よ。夜ごとに私の足元に這いつくばらせ、何を奪い、どう嬲り殺すかは、全て私の自由。……私の許可なくこの女の髪一本、指先一つに触れる者がいれば、相手が典礼尚書の娘だろうと、その喉笛を掻っ切って運河の鮫の餌にしてやるわ」


虚勢でも脅しでもない。

本物の殺意を肌で感じ取ったエレノアは、歯の根をガタガタと鳴らし、言葉を失った。


「失せなさい。三つ数えるうちに消えなければ、次は喉の穴を二つにしてあげる」


「ひ、ひいいっ!」


エレノアは取り巻きたちの肩に縋り付き、靴も脱げかけの無様な姿で回廊の奥へと逃げ惑っていった。

甲高い悲鳴と足音が完全に遠ざかり、大理石の回廊には再び静寂が戻る。


フランシアは短剣を指先で器用に回し、革鞘へと納めた。

そして、一度も振り返ることなく、背後で真鍮の盆を抱えたまま佇むミシャへと、冷え切った横顔を向けた。


「……何突っ立ってるのよ、間抜け。お茶が冷めるでしょうが」


吐き捨てられた乱暴な言葉。

だが、その乱れた金髪の隙間から覗くフランシアの指先は、ミシャの無事を確認した安堵からか、微かに震えていた。




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