第64話:白百合狩り
離宮の東翼に位置する回廊は、貴族令嬢たちの纏う甘い香水の匂いと、衣擦れの絹擦れ音で満ちていた。
ミシャは両手で真鍮の大きな盆を抱え、敷石の上を静かに歩んでいた。
盆の上に載せられているのは、王女の寝室へ届けるための焼き菓子と、銀のポットに注がれた湯気を立てる薬草茶。
灰色の粗末な侍女服、切り揃えられた黒髪。身分を奪われ、下賤の雑役に落とされながらも、その歩みには一片の卑屈さも乱れもない。
だが、中庭へ抜ける大理石のアーチをくぐり抜けた瞬間、行く手を塞ぐように数人の人影が滑り込んできた。
「あら、ごめんなさい。足元が見えなくて」
嘲るような、わざとらしい鈴の音のような声。
立ち塞がったのは、典礼尚書家の息の根のかかった筆頭令嬢――エレノア・フォン・ランベールだった。
菫色の豪奢なフリルドレスを揺らし、その背後には取り巻きの高位貴族の娘たちが四人、扇の影から値踏みするような下品な笑みを漏らしている。
エレノアの尖った絹靴の先が、わずかに前へ突き出されていた。
つまづかせ、盆を引っくり返させ、王女の茶を台無しにした罪で公衆の面前で鞭打つ――宮廷の女たちが好んで仕掛ける、手垢のついた罠。
しかし、ミシャの足先は、エレノアの靴先からわずか半寸のところで滑らかに軌道を逸らし、水が岩を避けるように寸分の狂いもなく踏み止まった。
盆の上の銀ポットからは、一滴の雫すら零れない。
「……失礼いたしました、エレノア様。回廊を塞いでのご談笑、どうぞお続けくださいませ」
完璧な角度の会釈。感情の波風ひとつ立たない菫色の双眸。
その平然とした佇まいが、かえってエレノアの狭隘な自尊心を逆撫でした。
「待ちなさい、泥棒猫」
エレノアの顔から嘲笑が消え、取り巻きたちの前で恥をかかされた屈辱が青白い怒りとなって吹き荒れる。
扇の親骨で、ミシャの抱える真鍮の盆をカツンと叩いた。
「誰の許可を得て通り抜けようとしているの? 王女の席を盗み、あまつさえクロード卿の視線を汚した大罪人の分際で……よくもまあ、そんな澄ました顔で侍女の真似事ができるものね!」
「私はただ、フランシア殿下より仰せつかった朝のお茶をお届けする途中でございます」
「フランシア様、ですって?」
エレノアは耳障りな笑い声を立てた。
「本物の王女殿下がお戻りになった今、貴女なんてただの生ゴミよ。殿下だって、夜ごと貴女を足元で這いつくばらせて嬲るのがお慰みになっているだけ。……その証拠に、ほら。殿下は今日、海軍省の視察のため離宮をお留守になさっているわ」
ミシャの眉が、わずかにピクリと動いた。
朝、フランシアは「外の風を吸ってくる」とだけ言い残し、近衛も付けずに姿を消していた。海軍省の視察――いや、運河口に停泊するガッシュの黒い巨艦の動向を確かめに行ったのだと、ミシャは即座に察した。
そして、その不在を待ち構えていたかのように現れた、この女たち。
「大奥様も仰っていたわ。王家の尊厳を汚した偽物は、生かしておくこと自体が宮廷の恥部だと」
エレノアの取り巻きの令嬢が一人、ミシャの背後へと回り込み、逃げ道を塞いだ。
エレノアの手が、ミシャの胸元――灰色の粗布の合わせ目へと伸びる。
「そのふてぶてしい目つき、あの森で野盗にでも育てられたのかしら? まずはその生意気な顔に、雑巾でも縫い付けて差し上げなくてはね。……押さえなさい!」
令嬢たちの指先が、ミシャの細い肩と腕を掴もうと一斉に伸びた。
逃げ場のない大理石の回廊。
だが、冷たい石畳の上で、ミシャの菫色の瞳は怯えるどころか、冬の泉のように透き通った光を宿していた。
抱えていた真鍮の盆。
その裏側、底板の隙間に仕込まれていた「一本の長い飾り針」へと、ミシャの白磁の指先が音もなく滑り込んだ。




