第62話:黒帆の影と白銀の盟約
機密書庫の重苦しい闇の中、男の熱い唇がミシャの白磁の指先からゆっくりと離れた。
クロード・フォン・ヴァルハイトは銀縁眼鏡を掛け直し、再び冷徹な仮面をその怜悧な貌に張り付かせた。
だが、眼鏡の奥で揺らめく青い炎は、決して消え去ってはいない。男は懐から真鍮の小さな鍵型と、羊皮紙の切れ端を取り出すと、ミシャの冷たい掌の上へと押し付けた。
「太后宮の機密金庫、その主鍵の石膏型だ。……宰相府の地下工房で密かに真鍮を流し込み、三日以内に合鍵を仕上げてお前の手元へ届ける」
「恐れ入ります、クロード卿」
「礼など口にするな」
クロードは低く、苦々しげに息を吐き捨てた。
「言ったはずだ、これは私の魂を買い戻すための契約だと。……三週間後の新月の夜、太后の私兵と典礼省の警備兵は、大聖堂の『聖水拝受の儀』に集中する。そのわずか半刻の隙に、太后宮の地下金庫の警備が手薄になる。そこが、唯一『王家の原簿』を掠め取れる瞬間だ」
「半刻……十分ですわ」
ミシャは石膏型を素早く灰色のエプロンの裏ポケットへと滑り込ませた。
針子としての修練で培われた指先は、布地の皺ひとつ作らずにそれを隠滅する。
「だが、ミシャ。原簿を手に入れたところで、陸路の関門は太后の手先で固められている。……お前とあの王女が王都を脱出する手立てはあるのか」
クロードの鋭い問いに、ミシャの脳裏へ浮かんだのは、セリアの手紙に記されていたあの悪名高き名だった。
「……王都の南、大運河の河口をご覧になったことはありますか、クロード卿」
クロードの眉がわずかに寄った。
海軍省の動向にも通じる若き補佐官の顔に、微かな緊張が走る。
「……外海から現れた、あの黒い怪物のことか」
「ええ」
「あれはただの船ではない。外海の覇者“海賊騎士”ガッシュが座乗する、四層甲板の超弩級重ガレオン『黒鴉号』だ。数百年の黒鉄木で組まれた重装甲と、三段百門の青銅砲……かつて王国海軍の第二艦隊を単艦で海の藻屑に変えた世界最大最強の木造要塞だ」
クロードの声には、一国の軍事防衛を預かる者としての隠せぬ慄然が混じっていた。
「黒地に銀の髑髏と鴉を掲げたあの船が、なぜか数日前から運河口に錨を下ろしている。水深の浅い運河に巨艦を引き入れていること自体が狂気の沙汰だが、海軍も迂闊に手を出せず、遠巻きに監視することしかできていない。……まさか、あの海賊船とお前が?」
「いいえ。わたくしではなく――あの海で牙を研いだ、もう一人のわたくしの切り札です」
ミシャの静かな返答に、クロードは息を呑んだ。
王女フランシアが生き延び、この鳥籠へ舞い戻ってきた背景。
外海の死神と恐れられる男を相棒として引き連れ、王都の喉元に大砲の照準を合わせたまま、あの紅薔薇の王女は離宮で爪を研いでいたのだ。
「……なるほど。あの狂った王女も、ただ喚き散らしているだけではなかったというわけか」
クロードは自嘲気味に呟き、機密書庫の重厚な樫の扉へと手を掛けた。
「面白い。世界最強の黒い軍船と、王家の原簿。そして、檻の中で牙を隠す二人の王女……。太后ヒルデガルトの完璧な箱庭が、内と外から食い破られる様を、特等席で見届けさせてもらおう」
扉の鍵が音もなく開かれ、夜の冷気が書庫の中へと流れ込む。
「戻れ、ミシャ。これ以上ここに留まれば、マルガレーテの飼い犬どもが嗅ぎつける」
「ええ。……良き夜を、クロード卿」
ミシャは灰色の裾を翻し、夜の回廊の闇へと静かに溶け込んでいった。
三週間後の新月へ向けて、運命の糸は確実に、そして破滅的な太さで撚り合わされ始めていた。




