第6話:甘い提案
神聖の森の外れ、蔦の絡まる廃礼拝堂。
傾いたステンドグラスから差し込む埃っぽい光の筋の中、ミシャは息を呑んで立ち尽くした。
石造りの祭壇の前に立っていたフランシアの姿は、以前のような傲慢な華やかさを完全に失ってい
た。
サロンで整えられていたはずの黒髪は乱れ、白磁の頬は土気色にこけ、菫色の瞳の下には濃い隈
が落ちている。何かに怯え、追いつめられた野獣のような、痛々しい気迫をその身に纏っていた。
「フランシア......? どうしたの、そんな顔をして」
ミシャがおずおずと駆け寄ると、フランシアは吸い寄せられるようにその両腕を掴んできた。
骨ばった指先が、麻のブラウス越しに食い込む。氷のように冷たい、異様な熱情。
「ミシャ......お願い。あなたにしか頼めないの」
「え......?」
「半日だけでいいわ。私のドレスを着て、あの離宮の部屋に座っていてほしいの」
掠れた、震える声だった。
ミシャは目を見張り、反射的に身を引こうとした。
「な、何を言っているの? そんなこと、できるわけがないわ! 私は森の針子よ。王女様のふりなん
て、一瞬で見破られて首を刎ねられてしまう!」
「見破られやしないわ! 見て、私たちのこの顔を!」
フランシアはミシャの顎を強引に引き寄せ、ステンドグラスの淡い光の下で互いの顔を晒した。
鏡の表と裏。白磁の肌、形の良い唇、夜露を含んだ菫色の瞳。
違いなど、誰にも分かりはしない。
「部屋の椅子に深く腰掛けて、本でも開いていればいいの。侍女たちが入ってきても、声を出さずに
『下がれ』と手を振るだけでいいわ。あの屋敷の人間は、大奥様の顔色を窺うだけの木偶人形よ。私
の顔をまじまじと覗き込む度胸のある者なんて、一人もいない!」
「でも、どうしてそんな無茶を......!」
「息が吸いたいのよ!」
フランシアの叫びが、崩れかけた天井に反響した。
王女の両目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。
「婚姻が決まったの。大奥様が決めた、冷酷な男との結婚よ。......来月には正式に発表されて、私
は一生あの石造りの鳥籠に繋がれるわ。母様のように、光も届かない離宮の奥で、心を殺して死ん
でいくのよ......!」
フランシアは膝から崩れ落ち、ミシャの腰に縋りついた。
高慢だった王女が、床の埃に額を擦りつけるようにして泣きじゃくっている。
「一度だけでいい......。誰の視線も届かない街の風を吸って、港の潮の匂いを嗅ぎたいの。普通の
人間の娘として、たった半日......夕暮れの鐘が鳴るまででいいから、自由に歩いてみたいのよ......
!」
親の顔も名も知らず、三姉妹の温かな愛の中で育ったミシャにとって、その哀痛な叫びはあまりにも
残酷に胸を刺した。
他人の空似の、身分も違う王女。けれど、その孤独な魂は、自分と同じ血が流れているのではない
かと錯覚するほど、痛切に響いてくる。
「フランシア......」
「ただでとは言わないわ」
フランシアは震える手で、隠し持っていた革袋を祭壇の上へ叩きつけた。
ジャラリと鈍く重い音が響き、口からこぼれ出たのは、見たこともないほど純度の高い王家の銀貨の
山だった。
「これを持っていきなさい。あなたの森の工房を、一生飢えさせずに支えられるだけの銀よ。......そ
れにね、ミシャ」
涙に濡れたフランシアの顔が、すがるように持ち上がる。
「私の部屋の奥の回廊は、母様が眠る『青薔薇の温室』へと繋がっているの。......普段は決して近づ
けないけれど、私の姿をしていれば、誰もあなたを咎めない。あなたが噂で聞いて、ずっと心を痛め
ていた、あの哀しい母様の顔を......一目見ることだってできるわ」
母――。
その言葉が、ミシャの思考を麻痺させた。
自分にはいないはずの、けれど噂を聞くたびに胸の奥がきゅっと疼いてやまない、王妃アデレイド。
「......夕暮れまでよ」
ミシャの唇から、震える声が零れ落ちた。
「夕暮れの鐘が鳴り終わるまでに、必ず戻ってきて。......それ以上は、一分だって待てないわ」
フランシアの青白い顔に、信じられない奇跡に触れたような、狂おしいまでの歓喜の笑みが広がっ
た。




