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血と薔薇の離宮  作者: 秦江湖


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第5話:鳥籠の檻

神聖の森の外れの温もりから一転、青薔薇の離宮の回廊は、真冬の地下墓地のように冷え切って

いた。


高いアーチ天井を支える石柱には、鯨油ランプの青白い炎が揺らめき、湿った煤の匂いが鼻をつく。


大理石の床を踏み鳴らすのは、規則正しい巡察兵の靴音と、侍女頭マルガレーテの腰に下げられた

巨大な真鍮の鍵束の鳴る音だけだった。



「歩幅を三分縮めなさい、フランシア。踵の音が壁に反響しております」



玉座のような豪奢な肘掛け椅子の上から、氷のように硬質な声が降ってきた。


白銀の髪を厳格に結い上げ、喪服を思わせる深藍の重厚なベルベットを纏った老婦人。青薔薇を

象った黒曜石のロザリオを指先で弄ぶその人こそ、ルミエール王国に君臨する絶対権力者――太后

ヒルデガルドだった。


「......申し訳ございません、大奥様」


フランシアは膝を折り、深々と頭を垂れた。床に伏せた指先が、ドレスの絹を裂かんばかりに強張

る。


「挨拶などどうでもよいのです。そなたに告げる儀があります」


太后の能面のような顔は、眉ひとつ動かない。


「王弟フェルディナントの長男、クロード卿との婚約を内定といたしました。来月、新大陸航路の開通

を祝す夜会にて、正式に披露いたします」


「......っ!」


フランシアの喉から、息を呑む微かな音が漏れた。



クロード・フォン・ヴァルハイト。若き宰相補佐として頭角を現すエリート官僚であり、王弟の血を引く

男。感情を銀縁眼鏡の奥に隠し、冷徹な法と理屈だけで世界を測るあの男の妻になれと、大奥様は

告げているのだ。


それは婚姻ではない。王家の血統を固定し、鳥籠の鍵をより強固に締め上げるための処刑宣告だっ

た。



「お言葉ですが、大奥様......! 私は、まだ......」



「口答えを許した覚えはありません」


太后の冷眼が、獲物を射抜く針のように細まる。



「そなたの母のように、我が血統の誇りを汚すことだけは許さぬと言ったはずです。離宮の硝子の檻

の中で、一生を終えたいのですか?」


母アデレイドの名を出された瞬間、フランシアの唇から血の気が引いた。抗う言葉は喉の奥で凍りつ

き、ただ震える膝を抱えて平伏するしかなかった。


「......下がれ」


冷淡な一言で謁見は終わった。


自室に戻ったフランシアは、侍女たちを怒鳴り散らして追い出すと、重い樫の木の扉に内鍵をかけ

た。


鯨油ランプが頼りなく揺れる薄暗い寝室。窓の外を見下ろせば、遠く王都の港の灯りが、手の届かな

い星屑のように煌めいている。自由な風を孕んで海へと漕ぎ出す帆船の影。



息が、吸えない。


胸元を締め上げるコルセットの鯨骨が、肋骨を内側から圧し折るように軋んだ。



「......嫌。行きたくない。あの男の前に引きずり出されるくらいなら......海へ飛び込んで死んだほうが

ましだわ」



爪を立てて自らの腕を掻きむしり、うずくまる王女の足元。

暗がりの中から、音もなくひとつの影が滑り込んできた。


――ニャァ。


しゃがれた、どこか嘲笑うような鳴き声。


姿を現したのは、右目に琥珀石のような義眼を嵌め込んだ、痩せこけた一匹の黒猫だった。


シスター・カリッサの足元にいつも侍っている、不吉な黒猫――ニクス。


黒猫は窓枠の上に軽やかに飛び乗ると、琥珀の義眼を怪しく光らせ、じっとフランシアを見下ろした。


まるで、王女の胸の内で煮えたぎる絶望と狂気を、値踏みするように。


黒猫の瞳に映る自分の顔を見た瞬間、フランシアの脳裏に、森の廃礼拝堂で咲いていた「あの少

女」の笑顔が閃いた。



――神聖の森の、あの娘。

――毛筋一本違わず、私と同じ顔をした、あの針子。



フランシアの唇が、震えながら吊り上がった。


絶望の底で弾けた火花のような、暗く昏い光が、菫色の瞳を満たしていく。


「......そうよ。あの子がいるわ」



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