第59話:裏地の符牒
地下リネン室の壁の窪みで、鯨油ランプの炎が頼りなく揺れていた。
冷たい石壁の隙間から、夜風に混じって城内の物音が遠くかすかに降りてくる。
敷石の上に端座したミシャの白磁の指先は、極細の骨針を寸分の狂いもなく躍らせていた。
針先が捉えているのは、灰色の粗末な侍女服の裾の折り返し――表からは決して見えない、縫い代のわずかな重なり。
引き抜いた麻の撚り糸で、針子は三姉妹妖精の秘伝である「結び目暗号」を刻み込んでいた。
三刺しして右へ撚れば「北の抜け穴」、二刺しして玉留めを二重に沈めれば「新月の刻限」。
布地の張力と針目の間隔だけで意味を伝えるその符牒は、森の民とミシャ以外、宮廷のいかなる審問官にも暴くことは叶わない。
(婚儀の夜、大奥様は必ず私を消しにかかる……)
中庭での騒動は、太后ヒルデガルトに決定的な口実を与えた。
フランシアが自分を庇い、クロードが心を奪われていると知れた今、太后がこの火種を放置するはずがない。
殺されるのを待つか、それともクロードの手を取って逃亡者の泥道を這うか。
どちらも、ミシャの選ぶ道ではなかった。
――ガサリ。
頭上の小さな換気口、外の枯れ草が積もる鉄格子の隙間から、微かな擦過音が響いた。
人ではない。羽音のような、あまりに微小な気配。
ミシャが顔を上げると、格子窓の鉄条の間に、一羽の青い野鳥――森の妖精セリアが使い魔として放った「雨燕」が、身を潜めるように留まっていた。
嘴に咥えられているのは、極薄の油紙で固く巻かれた親指ほどの小包。
「……セリア」
ミシャは音を立てずに立ち上がり、壁の出っ張りに爪先を掛けて軽やかに身を躍らせた。
森で木登りを重ねて鍛えられた身のこなし。
格子窓へ手を伸ばし、燕の嘴から小包を抜き取る。燕は低く一度だけ喉を鳴らすと、闇夜の空へと溶けるように飛び去っていった。
床へ静かに降り立ち、油紙の封を解く。
中から転がり出たのは、三姉妹が森の深奥で調合した「灰眠草の香油」を染み込ませた絹糸の束と、セリアの流麗な筆跡が走る極小の羊皮紙だった。
『外海の覇者たる“海賊騎士”ガッシュの船が、王都の運河口に投錨した。あの男はフランシア殿下の秘密の盟友。新月の夜、離宮の水門が開けば、城外への脱出路は確保できる。……だがミシャ、本物の王女を連れて逃げるつもりなら、太后宮の地下に眠る「王家の原簿」を奪わねば、あなたたちは一生、謀反人として追われ続けることになる』
(ガッシュ……?)
紙面に躍るその悪名高き名に、ミシャの指先がかすかに強張った。
針小部屋や市場の囁き声で幾度となく耳にした、外海の生ける伝説。
かつて王家の海軍船団を単艦で返り討ちにし、王国正規軍の歴戦の将校たちですら「外海の死神」と恐れ慄く、冷徹にして苛烈な“海賊騎士”ガッシュ。
(王国の軍人ですら震え上がるあの怪物が……フランシア様の相棒……?)
ミシャの脳裏に、夜ごとに自分の膝元で子どものように震えて泣き濡れる、あの脆い王女の姿がよぎった。
過酷な海に放り出され、漂流の果てに生き延びたと言っていた。だが、生き延びただけではない。
あの海賊騎士を従え、あるいは共謀の盟約を結び、こうして王都の喉元まで連れ帰ってきたのだ。
(あの方も、ただ震えていたわけではないのね……)
驚愕の奥から、乾いた感嘆が湧き上がった。
自分と同じ顔をした少女が、地獄のような外海の底で牙を研ぎ澄まし、あの恐るべき海賊騎士すら駒として盤上に引き摺り込んできたという事実に、胸の奥が熱く疼く。
「……やはり、そこに繋がっているのね」
ミシャは手紙を鯨油ランプの炎にかざした。
パチ、と小さな音を立てて羊皮紙が灰へと崩れ落ちる。
逃げ出すのではない。
鳥籠を力任せに壊すのでもない。
張り巡らされた悪意の糸を一本ずつほどき、自らの針で新たな秩序を縫い上げるのだ。
その時。
――カラン。
鉄格子の扉の外、螺旋階段の踊り場から、冷ややかな陶器の触れ合う音が落ちてきた。
見回りの侍女ではない。
ミシャは瞬時に香油の糸を胸元へ滑り込ませ、灰色の侍女服の裾を正して敷石の上に座り直した。
階段の闇から降りてきたのは、ランタンの灯りに照らされた黒衣の修道女――カリッサだった。
手にした銀の盆の上には、湯気を立てる一碗の白濁したスープ。
「夜更けのお勤め、ご苦労様。……寒がるあなたのために、慈悲深い大奥様から温かな夜食のお下がりよ、森の小鳥さん」
修道女の深紅の唇が、死の匂いを孕んだ甘い笑みを湛えていた。




