第58話:太后の蜘蛛網
中庭に漂う朝露が陽光に融けゆく頃、離宮の最上層に位置する太后宮は、沈香の重苦しい煙に閉ざされていた。
豪奢な紫檀の椅子に腰を下ろすのは、王国の実質的な支配者、皇太后ヒルデガルト。
皺の刻まれた青白い顔に、枯れ井戸のように光を吸い込む冷厳な双眸。
その足元には、先刻フランシアに一蹴された侍女頭マルガレーテが、額を絨毯に擦りつけて震えていた。
「……つまり、お前はあの粗野な娘に一言も言い返せず、尻尾を巻いて逃げ帰ってきた、と」
ヒルデガルトの声は低く、平伏する女たちの背骨を直に凍らせるような重圧を孕んでいた。
「も、申し訳ございません、大奥様……! 殿下が自らの命令だと庇い立てなさいまして……それに、宰相補佐のクロード卿までが口裏を合わせているとなれば、私どもの手には負えず……」
「見苦しい言い訳を」
太后の乾いた指先が、肘掛けの金箔を爪で微かに弾いた。
カチリ、と硬質な音が室内に響く。
「外海から戻ったフランシアは、まるで野犬の目をしている。だが、あの気性の激しい娘が、他人のために盾となるなどあり得ぬこと。……あの偽物の小娘を地下に幽閉し、自らの手元から決して離そうとせぬ理由。単なる私刑の愉悦にしては、いささか執着が過ぎる」
冷たい視線が、部屋の薄暗い片隅へと向けられた。
そこには、影に同化するように音もなく立つ黒衣の姿があった。
銀の十字架を弄びながら、薄い唇に毒を孕んだ笑みを浮かべる修道女――カリッサ。
「星の巡りは、何を語っている、シスター」
太后の問いに、カリッサは頭巾の下から漆黒の双眸を眇め、滑るような足取りで進み出た。
「昨夜、水汲み場で二つの星が交錯いたしました。白銀の冷たい星と、地に落とされた白い花……。クロード卿の心はすでに、玉座の前の赤い薔薇にはございません。あの男は、偽物の小娘に魂を売り渡しております」
「ほう……あの冷血漢が、女に狂ったか」
ヒルデガルトの唇の端が、残忍な弧を描いた。
法と理性で武装し、王家の意のままに動かぬ若き官僚。その唯一の急所が「身代わりの針子」であるならば、これほど御しやすい手札はない。
「ならば、好都合というものよ。……新月の婚儀まで、あとわずか。王国の民に二人の王女の醜聞を晒すわけにはいかぬ。手筈通り、婚儀の夜にすべてを片付ける」
太后の細い指が、卓上の書状を一枚、カリッサの前へ滑らせた。
そこには、新月の夜の祝宴における「聖水拝受の儀」の進行が記されていた。
「フランシアがクロードと正式に杯を交わすその瞬間。地下のリネン室へ火を放ち、偽物の小娘を事故に見せかけて灰に帰せ。……男の執着の種を焼き払い、本物の娘の首根っこを押さえる。灰の上に築かれる秩序こそが、我がルミエール王家の安寧よ」
「畏まりました、大奥様。……星の導き通りの、美しい灰の帳となりましょう」
カリッサは恭しく一礼し、影の中へとその身を滑り込ませた。
その頃。
地下の湿ったリネン室の隅で、ミシャは冷たい敷石の上に座り、粗末な木箱から一本の細い骨針を取り出していた。
針先に通すのは、灰色の粗布から引き抜いた、目立たぬ麻の撚り糸。
フランシアがくれた、わずかな執行猶予。
クロードが残していった、狂おしいまでの熱情の重み。
そして、天井の遥か上で張り巡らされつつある、死の蜘蛛網の気配。
(……新月まで、もう時間がない)
ミシャの白磁の指先が、静かに動いた。
灰色の侍女服の裏地へ、誰にも読めぬ極小の隠し縫いで、森の妖精たちの符牒を刻み込み始める。
奪われた鳥籠の鍵を、その針先で内側からこじ開けるための――反撃の布石が、闇の底で音もなく縫い進められていた。




