第57話:朝露の蜘蛛の巣
東の空が白み始め、青薔薇の離宮の窓々を鉛色の朝露が濡らし始める頃。
水汲み場の騒動をやり過ごしたミシャは、中庭の大水瓶を満たし終え、手桶を片付けていた。
氷のように冷え切った井戸水に浸かり続けた白磁の指先は、感覚を失いかけ、赤く強張っている。
だが、息を整える間もなく、中庭のアーチ門から響いてきたのは、激しい怒気を帯びた複数の足音だった。
「どこにいるの、あの不埒な泥棒猫は!」
甲高い叫び声とともに現れたのは、侍女頭マルガレーテ。
その背後には、昨夜逃げ帰った牢番女房ゲルダが、卑屈な笑みを浮かべながら追従していた。さらに、屈強な太后宮付きの警護兵が四人、長槍を構えて続いている。
「マルガレーテ様、おはようございます。中庭の清掃と水瓶の補充は、仰せの通り完了いたしました」
ミシャは灰色の侍女服の裾を正し、美しい礼を執った。
だが、マルガレーテはその平然とした態度に青筋を立て、手にした黒革の鞭の柄を握りしめた。
「白々しい口を利くものではありません! 昨夜、水汲み場で殿下の婚約者たるクロード卿を誘惑し、密会を重ねていたというではないの!」
ゲルダが得意げに顎を突き出し、昨夜の様子を歪めて喚き立てる。
「ええ、この目で確かに見ましたとも! クロード卿にしなだれかかり、あられもない姿で甘い言葉を囁き合っておりました! 大罪人の分際で、王家の尊厳を泥で汚す破廉恥者め!」
周囲の回廊から、朝の勤行を始めた女官や下僕たちが足を止め、遠巻きにざわめき始めた。
「王女殿下の婚約者に手を出したのか」「やはりただの野良猫、身の程を知らぬ」と、容赦ない蔑みの視線が降り注ぐ。
「大奥様より、王宮の風紀を乱す者は即刻捕縛し、地下の懲罰房にて白状させるようお許しをいただいております。……さあ、その不浄な手足を縛り上げなさい!」
警護兵たちが槍を構え、一歩を踏み出しかけた、その瞬間。
「――私の許可なく、誰が私の侍女を縛るというのかしら?」
氷柱を叩き割ったような澄み渡る冷徹な声が、中庭の空気を切り裂いた。
回廊の階段を優雅に下りてきたのは、フランシアだった。
身に纏うのは、昨日ミシャが手織りの金糸で波頭の刺繍を施した、あの濃紺のベルベットドレス。
サロンで固められた髪を朝風に揺らし、その首元には青薔薇のペンダントが冷たい輝きを放っている。
「ひ、姫様……!」
マルガレーテが狼狽し、慌てて膝を折る。
「しかし殿下、この泥棒猫は昨夜、クロード卿と密通を――」
「昨夜、彼女にベルベットの塩染めを命じたのは私よ」
フランシアは冷笑を浮かべ、ミシャの前へと歩み寄った。
警護兵たちを一瞥の下に射すくめると、マルガレーテを見下ろすその菫色の瞳に、外海の荒波で磨かれた猛禽の光を宿らせる。
「潮風で傷んだ布地を蘇らせるため、鉄分の多い地下水と粗塩の調合を指示したのは私。そして、その規定と王室資産の保全を監査するよう、クロードに命じたのも私よ。……私の指示に従って夜を徹した侍女を、風紀紊乱と罵るということは、私の命令が破廉恥だとでも言いたいのかしら?」
「め、滅相もございません! ですが、ゲルダが申しますには――」
「黙りなさい」
フランシアの指先が、ドレスのポケットから取り出した金貨を一枚、敷石の上へ弾き落とした。
チャリン、と冷たい音が響く。
「見間違いで騒ぎ立て、王家の朝を穢した無能な牢番には、退職金代わりにそれをくれてやるわ。……今すぐ私の視界から消えなさい。さもなくば、その腐った目玉を抉り出してカラスにくれてやる」
ゲルダは悲鳴を飲み込み、転がる金貨を拾う余裕すらなく、腰を抜かしかけながら逃げ去っていった。
マルガレーテもまた屈辱に唇を噛み締め、兵を引き連れて撤退せざるを得なかった。
静けさを取り戻した中庭。
フランシアはゆっくりと振り返り、灰色の侍女服を着た自らの鏡像を見下ろした。
「……助けてもらったなどと、自惚れないことね」
王女の冷たい囁きが、ミシャの耳元だけに落とされる。
「昨夜、お前が誰と何を話していたかなど、私には関係ない。……だが、私の許可なくお前を傷つける者がいれば、相手が大奥様の手先だろうと引き裂いてやるわ」
歪みきった執着。
だが、その瞳の奥で、フランシアの視線はミシャの無事を確認するように、痛切な安堵を微かに揺らしていた。




