第56話:闇の足音
水滴の落ちる音が、二人の皮膚を凍りつかせた。
――ピチャリ、ピチャリ。
石造りの回廊に響く足音は、決して重い軍靴の音ではなかった。
だが、深夜の静寂を忍び足で這うそれには、明らかに「獲物を見定めて近づく者」特有の、ねっとりとした悪意がこびりついている。
瞬時に動いたのはクロードだった。
先刻までの狂おしい熱情を氷の奥底へと押し殺し、男は音もなく懐から銀縁眼鏡を取り出して掛け直した。
同時に、外套の影から抜身の短剣の柄へ指を掛け、ミシャを自らの長身の背後へと庇う。
青い双眸は再び、冷徹無比な宰相補佐のそれへと変貌していた。
(……監視の侍女か、太后の手の者か)
ミシャもまた、息を呑んでクロードの背から身を引いた。
ここで密会を押さえられれば、クロードは婚約者を裏切った背信者として失脚し、ミシャは「王女の男を誑かした大逆人」として、今夜のうちに処刑台へと送られる。
フランシアの歪んだ庇護すら、公然の密通現場の前には何の役にも立たない。
足音が、水汲み場のアーチ状の入口で止まった。
月光の筋が切り裂く暗闇の奥、ぬらりと姿を現したのは――粗末な麻の頭巾を被り、腰に真鍮の鍵束をジャラリと提げた女だった。
侍女頭マルガレーテの懐刀、地下牢と下級雑役の監視を担う古参の牢番女房・ゲルダ。
その手には、覆いを半分外した真鍮の角灯が握られていた。
「……こんな夜更けに、水の音以外のものが聞こえると思えば」
濁った黄褐色の瞳が、水汲み場の冷たい闇をねめ回す。
ランタンの光が揺れ、濡れた敷石の上に置かれた二つの木桶と――直立するクロードの黒い軍礼服の裾を舐め上げた。
「おや……? これはこれは、宰相補佐のクロード卿ではございませんか。このような不浄な水汲み場に、貴族様が一体何のご用で?」
ゲルダの唇に、醜い嘲笑がへばりつく。
ランタンの光がさらに横へ滑り、クロードの背後に立つ、灰色の粗布を纏ったミシャを照らし出した。
「ほう。泥棒猫の夜の雑用を見張りに来られた、とでも仰るおつもりかい? ……それにしては、ずいぶんと親密な距離に見えましたねえ」
決定的な現場を押さえたという確信。
ゲルダの指が、腰の鍵束を弄ぶ。
この足で太后宮か侍女頭の部屋へ駆け込み、一言注進すれば、莫大な報奨金と出世が転がり込んでくるはずだった。
「下がれ、下賤な者が」
クロードの声は、冬の氷河のように平坦だった。
だが、その指先はすでに短剣の鯉口を切り、一瞬で女の喉笛を断ち切る間合いを測っている。
口封じ。
宮廷の暗闘において、最も確実で迅速な手段。
――だが、その殺気の手綱を引いたのは、ミシャだった。
「お待ちください、クロード卿」
ミシャはクロードの背後から静かに歩み出ると、冷たい敷石の上で深々と膝を屈め、完璧な侍女の礼を取った。
その手には、いつの間にか井戸水に浸した濡れ雑巾と、一握りの粗塩が握られていた。
「ゲルダ様、夜回りのご職務、ご苦労様でございます。クロード卿には今、殿下の明日の外出着に用いる『塩染め』のための水質を、宰相府の規定に照らして検分していただいておりました」
「……はあ? 塩染めだと?」
ゲルダの眉根が寄る。
「ええ。昼間、フランシア様より仰せつかった金糸のベルベット。潮風の塩分で傷んだ生地を定着させるには、この地下井戸特有の鉄分を含んだ水と粗塩の配合が不可欠なのです。……殿下の名誉に関わる重大な手仕事。失敗すれば、私の首だけでなく、管理を怠った貴女様にも大奥様の折檻が及ぶところでしたわ」
淀みなく紡がれる、あまりに精緻で専門的な職人の理屈。
ミシャは顔を上げ、冷涼な菫色の瞳でゲルダを真正面から見据えた。
「もし疑わしいとお思いなら、今すぐフランシア様をお起こしになり、ご確認なさいますか? ……夜の眠りを妨げられた王女殿下が、誰の首を最初に跳ね飛ばすか、お試しの良い機会かと存じます」
冷たい微笑。
そこには、脅しに怯える下級侍女の影など微塵もなかった。
昼間、あの獰猛なフランシアを手玉に取り、神業の金糸を縫い上げた針子の底知れぬ凄みが、暗闇の中でぞっとするほどの重圧となってゲルダの喉元を締め上げた。
「ぐ……っ」
ゲルダの足が、思わず半歩後ずさった。
王女の気まぐれな狂気と、目の前の女が放つ得体の知れない威厳。そして、その背後で静かに短剣の柄に手を置く、白銀の冷徹な官僚。
「……ふ、ふん! 言い訳ばかり達者な泥棒猫め! さっさと水を汲み終えて戻りな! 夜が明けたら、マルガレーテ様にきっちり報告してやるからね!」
捨て台詞を吐き散らし、ゲルダは逃げるように足早に階段を駆け上がっていった。
遠ざかる鍵束の金属音が消えると、水汲み場には再び冷たい静寂が戻った。
「……見事な機転だな」
クロードが短剣から手を離し、低く呟いた。
その青い瞳には、呆れと、そしていっそう深まる狂おしい賛美の色が宿っている。
「機転などではありません。事実を少しだけ縫い直したに過ぎませんわ」
ミシャは重い水桶を両手に提げ、背筋を伸ばして立ち上がった。
「夜が明ければ、侍女頭の嫌がらせがさらに激しくなるでしょう。……参りましょう、クロード卿。それぞれの檻へ戻る刻限です」




