第55話:冷涼の拒絶
石壁に背を押し付けられたまま、ミシャは肌を焼くような男の熱情を真正面から浴びていた。
肩口に押し当てられたクロードの額。
骨がきしむほどに強く抱きしめるその腕からは、冷徹な法を司る若き宰相補佐の矜持など微塵も感じられない。あるのは、ただ一人の少女に魂を狂わされた男の、哀しいまでの渇望だった。
だが、ミシャの菫色の瞳は、濁ることも揺らぐこともなかった。
井戸水で冷え切った自らの白磁の右手を、男の胸元――硬い黒の軍礼服の合わせ目へと、ためらいなく押し当てる。
「……お退きなさい、クロード卿」
静かな、だが剃刀のように冷たく研ぎ澄まされた声が落ちた。
クロードの身体が、微かに凍りつく。
「私を買いかぶりすぎですわ。わたくしは貴方が崇めるような、清らかな聖女などではありません。自らの首を繋ぎ止めるため、他人の人生の席を盗み、嘘を重ねてきたただの泥棒猫です」
「お前は泥棒などではない!」
クロードが顔を上げ、青い瞳に宿る剥き出しの焦燥でミシャを射抜いた。
「あの狂った鳥籠の中で、お前は一度として誰かを害したか? 病床のアデレイド様に寄り添い、理不尽な貴族どもの悪意を針一本で撥ね除けてきた。それをお前自身が泥と呼ぶなら、あの宮廷にいる者どもは全員、地獄の業火に焼かれるべき汚物に過ぎない!」
「ええ、ですから逃げないと言っているのです」
ミシャの掌が、男の胸板を強く押し返した。
押し留めようとする男の腕の隙間を、流れる水のように滑らかにすり抜け、半歩の距離を取る。
灰色の侍女服の裾を正し、前下がりの黒髪を指先で払うその所作には、一切の隙がなかった。
「新大陸への快速船? 名を変え、身を隠し、誰かの庇護のもとで怯えながら暮らす日々など、わたくしの望む生ではありません。……それに」
ミシャは水汲み場の天井、遥か上にある離宮の豪奢な階層を見上げた。
そこには、冷酷な太后が座し、美貌の黒魔女が糸を操り、そして――夜ごとに自分に縋り付いて泣く、もう一人の自分が囚われている。
「フランシア様を、あの暗がりに一人残して逃げることなど、土台無理なお話です」
「……あんな女のために、命を捨てる気か?」
クロードの声に、激しい嫉妬と苦渋が滲んだ。
「あいつはお前を地下へ叩き落とし、下賤の侍女服を着せ、割れた陶器を素手で拾わせたのだぞ! なぜそこまであの女に執着する!?」
「執着などではありません」
ミシャは静かに首を振った。
その双眸に宿る光は、冬の森を生き抜く野生の獣のそれだった。
「あの人はわたくしを罵りながら、同時に誰よりも怯えている。そして……わたくしが生きている限り、あの人は完全に壊れることはない。二輪の花が同じ幹から咲いているのなら、片方が腐り落ちれば、もう片方もいずれ立ち枯れるのです」
双星の掟。
血縁の真実は知らずとも、魂が本能的に察知している絶対の理。
「クロード卿。貴方の狂気じみたその情熱は、今はまだ胸の奥底へ鍵をかけてしまいなさい。……わたくしが本当に貴方の手を乞うその時まで、貴方は宰相府の冷徹な仮面を被り、フランシア様の婚約者として玉座の前に立ち続けなさい」
下級の雑役侍女が、王位継承権を持つ最高位の貴族へ下す、絶対の命令。
クロードは息を詰まらせ、その場に立ち尽くした。
突き放され、拒絶されながらも、その気高い傲慢さに魂を撃ち抜かれ、男の膝が屈服するようにわずかに震える。
その時。
――ピチャリ。
水汲み場の外、薄暗い回廊の敷石を濡らす、微かな湿った足音が響いた。
二人の密会を嗅ぎつけた、監視の影か。
冷たい闇の奥から、鋭利な殺意を含んだ風が、水汲み場の底へと吹き込んできた。




