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血と薔薇の離宮  作者: 秦江湖


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第53話:闇の底の逢瀬

深夜、離宮の深奥にある古い水汲み場は、死者の墓所のように冷え切っていた。


青薔薇の離宮の北側、庭園の散水と下級雑役のために掘られた古代の石造り井戸。

苔むした石壁の隙間から、絶え間なく冷たい地下水が滴り落ち、チャプン、チャプンと暗闇の中で寂寥とした反響を繰り返している。

頭上の小さな格子窓から差し込む青白い月光の筋だけが、敷石の上の湿った泥を鈍く照らし出していた。


ミシャは重い木桶を二つ、水汲み場の端に静かに下ろした。

日中の茶会が終わった後、フランシアから「明朝の掃除のために、夜の間に中庭の大水瓶を一杯にしておけ」と言いつけられた過酷な重労働。

だが、冷たい井戸水を汲み上げるその白磁の指先は、疲労に震えるどころか、冷静に周囲の気配を捉えていた。


――カツ、と。


背後の石段から、濡れた敷石を踏みしめる乾いた靴音が一つ響いた。


ミシャは驚きもせず、木桶の取っ手を放してゆっくりと振り返る。

暗がりの中から現れたのは、豪奢な白銀の飾緒を外し、夜の闇に同化する漆黒の外套を羽織った男――クロードだった。


「……本当に、おいでになるなんて」


ミシャの唇から、冷涼な夜露のような声が零れた。


「太后陛下の監視網をくぐり抜けてこのような下層へ足を運ぶなど、宰相補佐としてあまりに軽率でございますよ、クロード卿」


だが、クロードはその忠告に答えるどころか、音もなく歩み寄ると、ミシャの前に立った。

銀縁眼鏡をゆっくりと外し、胸元のポケットへと滑り込ませる。

露わになったその青い双眸は、昼間の冷徹な官僚のそれではない。飢えた獣のような昏い熱情と、張り詰めた狂気の炎が、月光の下で青白く揺らめいていた。


「軽率、か。……お前が灰色の襤褸をまとわされ、あの高慢な王女の足元で割れた皿を拾わされているのを見ながら、平然と机に向かっていられるほど、私はできた人間ではない」


クロードの細く長い指先が、躊躇いなく伸びた。

冷たい手袋を脱ぎ捨てた剥き出しの手が、ミシャの冷え切った頬へと触れる。

井戸水でかじかんだ皮膚に、男の熱い体温が痛いほどに染み渡る。


「……手を、お退けください」


ミシャは身を引こうとしたが、クロードの腕が瞬時に伸び、背後の冷たい石壁へとミシャを囲い込んだ。

逃げ場のない、石と男の体躯に挟まれた狭隘な空間。

至近距離で重なる、息遣いの熱。


「退けない。二度と、私の視界からお前を手放すものか」


クロードの声は低く、掠れていた。


「王家の血筋など、初めからどうでもよかった。……私が愛したのは、あの日、冷酷な鳥籠の中で自ら髪を切り落とし、知恵の針一本で世界を縫い直してみせた、お前の魂だ」


男のもう片方の手が、ミシャの乱れた前下がりの黒髪を優しくすくい上げる。

その触れ方は、壊れ物を扱うように繊細で、狂おしいまでの執着に満ちていた。


「すべてを捨てて、今夜ここを発とう。……快速ガレオンを用意してある。新大陸の港町へ渡れば、太后の追手も、あの狂った王女の爪も届かない。そこで二人、私の妻として――」


「お黙りなさい、クロード卿」


ミシャの静謐な声が、男の熱狂をぴたりと遮った。

ミシャは視線を逸らすことなく、至近距離からクロードの青い炎をまっすぐに見据え返した。


「わたくしを誰だと思っていらっしゃるのですか。……昨夜、貴方の唇が動いたのを、わたくしはこの目で確かに見ましたわ」


水汲み場の空気が、一瞬にして凍りつく。

ミシャの菫色の瞳が、研ぎ澄まされた刃のように冷たく細められた。


「『私の白百合』――。なぜ貴方が、あの森の廃礼拝堂でフランシア様がわたくしにだけ授けた秘密の名を、知っているのです?」




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