第50話:夜半の跫音
暖炉の火が熾火となり、寝室の闇が刻一刻と濃度を増していく。
ミシャの膝の上で、フランシアの呼吸はいつしか一定のリズムを刻み始めていた。
外海の嵐を生き延び、王都へ乗り込んできた強靭な牙も、夜の底では剥がれ落ちる。
ミシャの灰色の侍女服を握り締めたまま眠りに落ちた王女の横顔は、廃礼拝堂で砂糖菓子を分け合ったあの日と何一つ変わらない、哀しいほどに無垢な少女のものだった。
(……この人は、ずっと凍えていたのだわ)
ミシャは痛む膝の感覚をこらえながら、そっとフランシアの身体を抱き起こし、寝台の豪奢な絹のシーツの上へと横たえた。
毛布を引き上げ、その額に張り付いた黒髪を払う。
他人の空似の、身代わりの針子。
そう自分に言い聞かせながらも、この眠る顔を見つめていると、胸の奥底の泉から温かな水が溢れ出すような、正体不明の痛切な愛しさが込み上げてくる。
その時だった。
――スッ……。
扉の隙間から差し込んでいた廊下の月光が、微かに歪んだ。
人の気配。
布擦れの音すら立てず、鍵の閉ざされた樫の巨扉の真向かいに、誰かが佇んでいる。
ミシャは息を殺し、音もなく立ち上がった。
監視の女官ではない。もっと重く、冷徹で、獲物を逃すまいとする捕食者の気配。
忍び足で扉へと近づき、真鍮の覗き穴から外の薄暗い回廊を見やる。
青白い月光の帯の中に立っていたのは――クロードだった。
軍礼服を乱すこともなく、手には夜会用の短剣を帯びたまま、男は閉ざされた扉を見据えていた。
銀縁眼鏡の奥、氷のように研ぎ澄まされた青い双眸。
扉一枚を隔てたその至近距離で、クロードの視線は、まるで木目の隙間を透かしてミシャの存在そのものを射抜いているかのように真っ直ぐだった。
(なぜ、こんな刻限に……)
ミシャの胸が小さく跳ねる。
大奥様や典礼省の監視の目をかいくぐり、夜半の王女の寝室前へ立つことなど、宰相補佐の地位を危険に晒す大罪に等しい。
それとも、この部屋の「秘密」を暴きにきたのか。
だが、クロードは閂を破ろうとも、ノックをしようともしなかった。
ただ、白手袋に包まれた掌を、冷たい樫の扉の表面へと、慈しむようにそっと押し当てた。
その触れ方は、中にいる王女への忠誠などではない。
扉の向こうに囚われている、ただ一人の少女の気配を確かめ、その温もりを貪るような――痛切で、底知れぬ狂気に満ちた所作だった。
男の薄い唇が、声を出さずに微かに動く。
『……待っていろ、私の白百合』
読唇で読み取れたその言葉に、ミシャの背筋に鋭い戦慄が走った。
白百合。
それは、フランシアがかつて廃礼拝堂で、ミシャにだけ与えた秘密の呼び名。
なぜ、この男がそれを知っているのか。
クロードは扉から手を離すと、音もなく踵を返し、青白い月の回廊の闇へと溶け去っていった。
残されたのは、凍てつくような夜気と、加速する運命の軋み。
夜明けまで、あと二刻。
光を奪われた地下の侍女と、狂気を孕んだ白銀の騎士、そして眠れる紅薔薇。
閉ざされた離宮の鳥籠の中で、歪んだ愛執の歯車が、後戻りのできない音を立てて噛み合おうとしていた。




