第49話:夜の共依存
暖炉の薪が爆ぜ、赤黒い火の粉が暗がりに舞い散った。
ミシャの指先が、フランシアの乱れた黒髪をそっと梳いた。
指紋の奥に残る無数の針刺し傷が、震える王女の頭皮に微かな痛みを残す。
そのざらついた感触に、フランシアはさらに喉を詰まらせ、ミシャの膝へと深く額を擦りつけた。
「……フランシア様」
ミシャの低く澄んだ声が、夜の寝室に落ちる。
「逃げられるはずがございません。わたくしが礼拝堂から逃げ出していれば、今頃、神聖の森の水車小屋は太后陛下の近衛兵に焼き払われておりましたわ」
「嘘よ……私の代わりに、あの鳥籠の椅子に座りたかったのでしょう? 贅沢なドレスを纏い、クロードに傅かれ、王国の頂点に立ちたかったのでしょう……!」
縋りつきながらも吐き捨てられる、毒を含んだ罵り。
だが、ミシャの心は少しも揺らがない。
森で冬枯れの巨木を撫でていた時のように、淡々と、規則正しいリズムでフランシアの背中を撫で続けた。
「わたくしにとって、あの純白のドレスは鯨骨で締め上げられた棺桶に過ぎませんでした。……貴女が戻らなければ、わたくしは今宵、貴女の代わりにあの冷徹な結婚の儀に身を捧げるところでしたのよ」
「……っ」
フランシアの肩が、びくりと跳ね上がった。
ミシャの灰色の侍女服を掴む細い指先が、布地を破かんばかりに強張る。
「クロードは……あいつは、私のものよ。……いいえ、あいつだけじゃない。この離宮も、青薔薇のペンダントも、母様の温室も、すべて私のもの……! 泥棒猫の貴女に、何ひとつ渡すものですか……!」
激しい独占欲。
だが、その言葉とは裏腹に、フランシアの腕はミシャの腰を締め上げ、胸の鼓動を確かめるように強く密着していた。
外海の荒波と血飛沫に塗れ、誰一人信じることのできない暗黒をくぐり抜けてきた少女にとって、いま腕の中にいるこの「自分と同じ顔をした身代わり」だけが、この世界で唯一、自分を偽ることなく晒せる鏡だった。
「ええ、そうです。すべて貴女のものですわ、フランシア様」
ミシャは静かに囁き、その耳元へと唇を寄せた。
突き放すことも、媚びることもない。
主従の境界を曖昧に溶かし去る、冷涼で甘やかな毒。
「ですから……昼の間は、どうぞわたくしを徹底して虐げてくださいまし。泥を投げ、過酷な針仕事を言いつけ、太后陛下や侍女頭の前で、わたくしが貴女の奴隷であることを存分にお見せなさい」
フランシアが弾かれたように顔を上げた。
涙で濡れた菫色の瞳が、夜露のように静まり返ったミシャの双眸と、至近距離で正面からぶつかり合う。
「……何を、言っているの?」
「大奥様も、シスター・カリッサも……貴女の隙を狙っております。もし貴女がわたくしに甘さを見せれば、大逆罪の共犯として、二人まとめて運河の底へ沈められるだけですわ」
ミシャの白磁の指先が、フランシアの濡れた頬をそっと拭った。
爪先が、王女の薄い唇の端をなぞる。
「昼は冷酷な主君と惨めな侍女を演じなさい。……そして夜、この扉を閉ざした時だけ、わたくしの膝で泣けばよろしいのです。貴女が凍えぬよう、わたくしが火の番をして差し上げますから」
背筋を貫くような、戦慄の甘美。
フランシアの喉が鳴った。
どちらが捕食者で、どちらが獲物なのか。
命令を下しているはずの自分が、この名もなき針子の張り巡らせた見えない糸の中に、絡め取られていく――。
その時。
――コト、と。
寝室の窓の重厚なバルコニーの外側で、夜風とは違う微かな衣擦れの音が響いた。
霧深き真夜中。
城壁をよじ登り、暗闇の中から青薔薇の離宮の窓辺を覗き込む――底知れぬ執着を宿した、青い双眸の影があった。




