第48話:閉ざされた寝室
深夜の鐘が遠く十二を打ち鳴らすと、青薔薇の離宮の回廊からは一切の人の気配が途絶えた。
フランシアの私室の分厚い樫の扉の内側。
豪奢な真鍮の閂が、ガチャリと重い金属音を立てて落とされた。
部屋の外側には、侍女頭マルガレーテが派遣した監視の女官が控えているはずだった。だが、この部屋の鍵は内側から固く閉ざされ、二人の王女だけの密室が完成していた。
パチ、パチと暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広々とした寝室に響く。
天蓋付きの寝台の前、冷たい石畳の上に敷かれた薄い絨毯の上に、ミシャは灰色の侍女服の裾を揃えて端座していた。
手元には鉄の火掻き棒。
暖炉の火の番という過酷な夜業を言いつけられながらも、ミシャの背筋は崩れず、その横顔には疲労よりも澄み切った静けさが宿っていた。
一方、真紅のシルクのネグリジェを纏ったフランシアは、暖炉の前に立ち尽くしたまま、炎の明かりに照らされたミシャの横顔をじっと見下ろしていた。
昼間の高慢な笑みも、猛禽のような殺気も、その顔からは完全に剥ぎ取られていた。
肩で乱れる黒髪。
サロンで固められたフィンガーウェーブは解かれ、前下がりに切り揃えられた毛先が、ミシャのそれと全く同じ長さに揺れている。
「……ミシャ」
落ちてきた声は、昼間の耳を裂くような嘲弄とは別人のように、掠れて小さかった。
まるで、深い海の底から引き上げられた難破船の破片のような響き。
ミシャは火掻き棒の手を止め、静かに顔を上げた。
「何でございましょうか、フランシア様。薪をお足しいたしましょうか」
「そんなこと、どうでもいいわ」
フランシアは吐き捨てるように呟くと、ふらりと足元を千鳥足にしてミシャの前へと歩み寄った。
そして――。
サワリ、と絹が擦れる音を立て、本物の王女はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
石畳に座るミシャの膝元へ、自らの額を埋めるようにして。
「……っ」
ミシャの喉が微かに鳴った。
フランシアの両腕が、震えながらミシャの細い腰へと回される。
昼間、鋭利な爪で顎を突き上げ、「泥棒猫」と罵倒し、割れた陶器を素手で拾わせた女。
その本物の王女が今、夜の暗がりの中で、ミシャの膝の上に顔を押し当て、子供のように小刻みに震えていた。
「どうして……どうして貴女は、そんなに平気な顔をしているの……?」
フランシアの指先が、ミシャの灰色の侍女服の布地を、握り潰さんばかりに強く掴んだ。
布越しに伝わる、熱を帯びた息遣いと、濡れた雫の感触。
「私はあんな冷たい海に落とされ……死人のように漂流して……荒くれ者たちに囲まれて、短剣の握り方を覚えなければ生きられなかったのよ。……それなのに貴女は、私の服を着て、私の代わりにクロードに愛されて……」
嗚咽が漏れた。
剥き出しの憎悪。
けれど、その腕がミシャを締め付ける力は、憎しみというよりも、暗闇の中で溺れる者が掴んだ唯一の浮き木に縋りつくような必死さに満ちていた。
「嘘つき……。夕暮れまで待っていてと、あんなに頼んだのに……。なぜ逃げ出さなかったの? なぜ私の席に座り続けたの?」
責め立てる声は、やがて弱々しい懇願へと変わっていく。
「私を置いていかないで……。ねえ、ミシャ。私の名前を呼んで……。あんな冷たい敬語で、私を他人のように見ないで……」
昼の残酷な虐待と、夜の狂気じみた泣き縋り。
歪みきった保護と、逃げ場のない共依存の檻。
ミシャは火掻き棒を床へと静かに置くと、躊躇うことなく手を伸ばした。
針刺し傷の残るその白磁の指先が、泣き濡れる本物の王女の黒髪へと、母が子を宥めるように優しく、静かに触れた。




