第47話:黄金の波頭
離宮の時計塔が、正午を告げる重々しい鐘を鳴り響かせた。
十二回目の鐘声が中庭の噴水へと溶けていくと同時に、針小部屋の樫の扉が外から音を立てて押し開かれた。
先頭に立っていたのは、嘲笑を隠そうともしない侍女頭マルガレーテ。その後ろには、真紅の部屋着を纏ったフランシアが、冷淡な面持ちで従者たちを従えて立っていた。
「正午の鐘が鳴り終わりましたわ、フランシア様。……どうせ手もつけられず、泥棒猫が泣き喚いているに決まっております。今すぐ中庭の石柱へ縛り付け、鞭打ちの――」
勝ち誇ったマルガレーテの声が、喉の奥で引き攣れて止まった。
部屋の中央。
作業机の上に広げられていたのは、潮焼けで見る影もなく毛羽立っていたはずの、あの濃紺のベルベットドレスだった。
だが、そこにあったのは襤褸などではない。
海水の塩気で引き攣れていた布地は完璧に目を揃えられ、裂けていた裾や袖口には、まるで最初からそう誂えられていたかのように、緻密で豪奢な金糸の唐草模様がびっしりと施されていた。
ただの修繕ではない。
外海の荒波を思わせる大胆な幾何学模様と、王家の薔薇の意匠が奇跡のような調和を見せ、光の角度によって波頭がきらめくように金色の立体刺繍が浮き上がっている。
「な……これ、は……」
マルガレーテの顎が震え、背後に控えていた下級侍女たちが息を呑んだ。
王室御用達の宮廷縫製師たちが十人がかりで三日徹夜しても、これほど美しく、狂いのない金糸のレリーフを仕立てることは不可能だ。
クロードは腕を解き、冷ややかな足取りでフランシアの前へと歩み出た。
銀縁眼鏡を指先でわずかに押し上げ、事務的で隙のない声を広間に響かせる。
「宰相府監査のもと、仕上がりを確認いたしました。予定刻限の内、寸分の縫い乱れもなく、王室の威信を損なう箇条は一切ございません。……殿下のご注文通りの逸品でございます」
完璧な官僚の報告。
フランシアはクロードの冷たい青い瞳を一瞥し、次いで長机の傍らに控え、灰色の侍女服の裾を揃えて静かに頭を垂れるミシャへと視線を移した。
指先一つ傷ついていない。
疲労に顔を歪めるどころか、夜露に濡れた花のように澄み渡った菫色の瞳で、主人の査定を静かに待っている。
屈辱を与え、泣き叫ばせ、自らの慈悲に縋らせようとしたはずの企みは、針子の神業のような知恵と技術の前に、鮮やかなまでの完敗を喫していた。
「……下がれ、マルガレーテ」
フランシアの喉から、押し殺したような低い声が漏れた。
「えっ……し、しかし殿下、この者が抜け道を使って不正を働いた可能性が――」
「聞こえなかったかしら?」
フランシアが首だけを巡らせた。
その双眸に宿る、外海で猛獣の牙を研ぎ澄ませてきた女の冷徹な殺気に、マルガレーテは息を詰まらせ、青ざめて深々と頭を下げた。
侍女たちが蜘蛛の子を散らすように退室し、部屋には再び重苦しい静寂が降りる。
フランシアはドレスへと近づき、金糸で編み上げられた波頭の刺繍に、細い指先を這わせた。
指先に伝わる、完璧に整えられた縫い目の滑らかさ。
神聖の森の外れ、廃礼拝堂で、自分のほつれた袖口を繕ってくれたあの日の針子の指先の感触が、鮮やかに蘇る。
「……相変わらず、可愛げのない手仕事ね」
フランシアの唇が、嘲弄とも自嘲ともつかぬ歪みを見せた。
ミシャの顎を指先で強引に持ち上げる。
間近で見つめ合う、二つの同じ顔。
だが、フランシアの瞳の奥で蠢いていたのは、先刻までの剥き出しの怒りだけではなかった。
いかなる泥水に突き落としても決して濁らない、この美しく気高い魂への――吐き気を催すほどの嫉妬と、決して手放したくないという昏い執着。
「大した腕前だこと、ミシャ。……でもね、職人の小細工で私の機嫌が取れると思ったら大間違いよ」
フランシアは手を離し、背を向けた。
「今宵、私の寝室の暖炉の火の番を命じます。……一晩中、私の足元で膝をつき、灰を片付け続けなさい。一睡もすることは許さないわ」
冷酷な命令を言い捨て、フランシアは部屋を出ていく。
だが、その背中を見送るミシャの耳には、去り際の王女の呼吸が、まるで凍える子供のように浅く震えていたことが、はっきりと届いていた。




