第46話:三刻の金糸
離宮の東翼、日当たりの悪い針小部屋の空気は、埃と古い羊皮紙の匂いで満ちていた。
卓上に広げられたのは、外海の潮風と運河の泥水に洗われ、無残に毛羽立った濃紺のベルベットドレス。
海水の塩分を吸ってカチカチに硬化した分厚い生地は、並の鉄針など一刺しでへし折るほどの頑強さを見せていた。これを正午までのわずか三刻――手織りの金糸で寸分の狂いもなく縫い直すなど、針子を潰すための明白な処刑宣告に等しい。
部屋の扉の前には、背筋を凍りつかせるような無言の威圧感を放ちながら、クロードが立っていた。
腕を組み、軍礼服の胸元で白銀の飾緒を揺らす男の双眸は、部屋の隅の長机へ冷ややかに注がれている。
「……正午の鐘まで、あと二刻半だ」
クロードの声音は、研ぎ澄まされた鋼のように硬質だった。
だが、その声の冷たさとは裏腹に、背後に控えていた見張りの近衛兵二人を「宰相府の機密監査を兼ねる」と威圧して廊下の外へ追いやったのは、他ならぬ彼自身だった。
ミシャは灰色の侍女服の袖を捲り上げ、机の上のドレスを見据えた。
取り乱す様子など微塵もない。
エプロンの懐から取り出したのは、妖精セリアから譲り受け、幾重もの危難を共にくぐり抜けてきた鋼の裁ち鋏と、三姉妹秘伝の細い骨針。
「水車小屋の冬の霜に比べれば、この程度の塩気、恐るるに足りません」
ミシャの唇から、小さく凛とした呟きが漏れる。
まず手に取ったのは、卓上に置かれていた水差しと、油紙に包まれた蜜蝋の塊。
指先にほんの少しだけ水を含ませ、潮で強張ったベルベットの縫い目へと的確に叩き込んでいく。水分が繊維の目を解きほぐす絶妙な頃合いを見計らい、金糸の束を蜜蝋の溝に素早く滑らせた。
蝋で滑らかにコーティングされた金糸は、摩擦熱に耐え、引き攣れを起こさぬ強靭な一本の弦へと変貌する。
――スッ、トン。
――スッ、トン。
規則正しく、澄んだ音だけが針小部屋に響き始めた。
ミシャの白磁の指先が、目にも留まらぬ速さで宙を舞う。
硬化していたはずの厚布に骨針が吸い込まれるように通り、金糸が生き物のようにベルベットの表面を疾走していく。破れた裾をただ繕うのではない。波に削られた傷跡をそのまま「波頭を駆ける唐草の曲線」に見立て、立体的な刺繍のレリーフとして編み直していくのだ。
腕を組んだまま見つめていたクロードの喉元が、微かに波打った。
眼鏡の奥の青い瞳が、狂おしい熱を孕んで細められる。
かつて冷酷な宮廷で出会った、気高く美しい針子の手業。
いかなる理不尽の泥を投げつけられようと、指先一つで世界を美へと塗り替えてみせるその魂の清冽さ。
男の胸の奥で、張り詰めていた理性の糸が音を立てて千切れかけた。
「……ミシャ」
低く、掠れた男の声が落ちた。
他人の名を騙る「第一王女」ではなく、ただ一人の少女の名を呼ぶ、剥き出しの真情。
クロードが一歩、敷石を踏みしめて長机へと間合いを詰めた。
だが、ミシャの針先はコンマ一秒の狂いもなく布地を貫き続けた。
顔を上げることすらなく、静謐な声が返される。
「お控えください、クロード卿。扉の向こうには、大奥様とフランシア様の耳目が張り巡らされております」
「そんなものに何の意味がある」
クロードの白手袋の掌が、作業机の縁を強く軋ませた。
身を乗り出し、前下がりの黒髪に隠れたミシャの横顔を至近距離から射抜く。
「昨夜、お前が引き剥がされたあの瞬間……私は、あの広間のすべての者を斬り伏せてでも、お前を奪い去るべきだった。王女の席などどうでもいい。私の妻として、今すぐこの忌まわしい鳥籠から連れ出してやる」
かつて氷の官僚と呼ばれた男の、狂気にも似た激しい告白。
だが、ミシャは最後の一針をベルベットの裏地へと通し、鋼の鋏で金糸を鋭く断ち切った。
――パチン。
乾いた切断音が、部屋の熱狂を冷徹に押し戻す。
ミシャは静かに顔を上げ、冷涼な菫色の瞳でクロードの青い炎を受け止めた。
「連れ出して、どこへ逃げるというのですか。……神聖の森を焼き払わせ、逃亡者の汚名を背負って海の底へ沈むのが、貴方の望む救いなのですか?」
クロードの息が止まる。
「わたくしは、逃げません。フランシア様の歪んだお心も、太后陛下の冷たい檻も……この手で縫い直してみせます。ですからクロード卿」
ミシャは修繕を終え、光り輝く黄金の唐草を纏ったベルベットドレスを優雅に持ち上げた。
その瞳には、一国の王女ですら持ち得ぬ、不屈の気品が宿っていた。
「貴方は貴方の席で、法と理性の盾でいてくださいまし。……わたくしが、この檻を食い破るその刻まで」




