第45話:冷徹の仮面
「……お入りなさい、クロード」
フランシアは短剣からすっと手を離すと、寝台の傍らの豪奢な肘掛け椅子へと腰を下ろした。
先刻までの激昂を仮面の裏へと押し殺し、血のように赤い唇を弧へと歪める。
重厚な樫の扉が開き、朝の光を背にして一人の男が入室してきた。
寸分の乱れもなく整えられた黒の軍礼服に、白銀の飾緒。若き天才官僚、クロード・フォン・ヴァルハイト。
手には典礼省の封蝋が施された分厚い書類を抱え、銀縁眼鏡の奥の青い双眸は、いつもの氷のように冷徹な光を湛えていた。
「朝のお早い刻に失礼いたします、フランシア様。来たる新月の夜に行われる、正式な婚儀の誓約箇条について、事前に殿下のご署名を――」
クロードの事務的な口調が、ぴたりと途切れた。
男の視線が、部屋の隅――破片を載せた銀のトレイを捧げ持ち、灰色の粗末な侍女服を纏って頭を垂れるミシャの姿を捉えたのだ。
部屋の空気が、瞬時に凍りつく。
クロードの眼鏡の奥の青い瞳が、わずかに揺らめいた。
純白の夜会ドレスを剥ぎ取られ、泥水のような灰色を身に纏わされた少女。
手袋すら与えられず、剥き出しになった白磁の指先には、陶器を拾い集めた際の薄い煤の汚れが微かに残っていた。
男の喉仏が、苦渋を呑み下すように微かに動く。
抱えていた書類を握りしめる白手袋の指先に、ぎりぎりと青筋が浮き上がった。
そのわずかな動揺を、フランシアが見逃すはずもなかった。
王女は足を組み、真紅のガウンの裾から滑り出た爪先を揺らしながら、嘲笑をこぼした。
「どうかなさいましたの、クロード? 私の新しい専属侍女が珍しいかしら。……ふふ、見なさいな。昨夜まで貴方の腕の中で王女を気取っていた泥棒猫が、今や私の足元で割れた皿を拾っているわ」
クロードの青い瞳に、暗い影が落ちる。
男はミシャから強引に視線を剥ぎ取ると、フランシアの正面へと歩み寄り、完璧な角度で頭を垂れた。
「……いえ。些末な雑用係の処遇など、私の職務の預かり知るところではございません。所詮は身の程を知らぬ下賤の身。相応しい罰を受けて当然かと」
吐き捨てられた、冷酷極まりない言葉。
だが、その声の底に潜む微かな震えと、無理やりに張り詰めた皮膚の硬直を、ミシャは聞き逃さなかった。
彼が今、自分を侮辱することで、フランシアの嗜虐の矛先がこれ以上ミシャへ向かわぬよう、防壁を築いているのだということを。
「まあ、冷たいお方」
フランシアは満足げに目を細めたが、その瞳の奥には拭いきれぬ猜疑の炎が燻っている。
「ならばクロード、貴方のその忠誠を行動で示してくださるかしら?」
フランシアは卓上の銀のベルを指先で弾いた。
涼やかな澄んだ音が、息苦しい部屋に響き渡る。
「私の朝の散策のための、重厚なベルベットの外出着。……運河の潮風で傷んだそれを、この無能な侍女に修繕させようと思いますの。今日の正午までに、一分の狂いもなく手織りの金糸で縫い直すよう、宰相府の厳しい目で監視を命じますわ」
正午まで――残された時間はわずか三刻。
分厚く硬いベルベットに金糸を通すなど、熟練の職人でも丸一日を要する難業だ。間に合わなければ、今度こそ公衆の面前での鞭打ちの口実ができる。
「……承知いたしました。第一王女殿下のご命令とあらば」
クロードは深々と一礼した。
顔を上げた男の青い瞳が、ほんの一瞬、部屋の隅に立つミシャと交錯する。
眼鏡の奥、冷徹な仮面の奥底で燃え盛っていたのは、侮蔑などでは断じてない。
いまにも理性の手綱を引きちぎり、すべてを焼き尽くして彼女を奪い去らんとする、狂おしいまでの執着と焦燥の火だった。




