第44話:白磁の指先
砕け散った陶器の鋭利な破片が、朝の光を浴びて青白い刃のように床一面で光っていた。
散らばる黒い茶葉。
南蛮渡来の極上茶が、無惨な汚れとなって敷石を汚している。
手袋も箒も使わず素手で拾え――それは、女の命である指先を切り刻み、屈辱に泣き崩れる姿を晒せという、明白な悪意の宣告だった。
フランシアは真紅のガウンの裾を翻し、冷ややかな腕組みをしてその場に仁王立ちしていた。
菫色の瞳の奥に宿るのは、獲物の悲鳴を待ち望む嗜虐の炎。
だが。
ミシャの唇から漏れたのは、動揺の息すら混じらぬ、静謐な言葉だった。
「かしこまりました、フランシア様」
ミシャは灰色の侍女服の裾を両手で優雅に払い、躊躇いなく床へと片膝をついた。
背筋は一分の隙もなく伸び、その姿勢の美しさは、まるで礼拝堂の祭壇に捧げ物を置く聖職者のようだった。
ミシャの白磁の指先が、最も大きく尖った破片へと伸びる。
(……森の冬に比べれば、こんなもの)
凍てつく谷の霜柱をかき分け、鋭利な石楠花の棘に肌を裂かれながらも、傷一つつけずに最高品質の繊維を採取してきた針子の指先。
指紋の隅々にまで宿る職人の繊細な触覚が、陶器の重心と刃の向きを瞬時に見極めていく。
シュッ、と。
擦れる音すら立てず、ミシャの指先は吸い付くように破片の平らな側面だけを捉え、掌の中へと重ねていった。
迷いのない、流れるような手の動き。
血の一滴どころか、掠り傷一つ作らない。尖った角を合わせ、大きな破片の内側へ小さな欠片を嵌め込むようにして、床の上の危険を瞬く間に回収していく。
「な……」
見下ろしていたフランシアの喉が、微かに引き攣った。
泣き叫び、血に染まった指を抱えて許しを請う――そんな醜い姿を期待していたはずの王女の瞳に、動揺の色が走る。
ミシャは散らばった黒い茶葉に目を落とすと、エプロンのポケットから、森の水車工房で自ら織り上げた極細の亜麻布の端切れを取り出した。
息を吹きかけることもなく、布の静電気と繊維の目を巧みに使い、敷石の目地に挟まったわずかな茶葉の粉末まで、撫でるように一網打尽に集め取っていく。
わずか一分にも満たない時間。
床には傷一つ残らず、陶器の破片は幾何学的な小山となってトレイの上へ美しく整頓されていた。
ミシャは静かに立ち上がると、トレイを片手に持ち、胸元へもう片方の手を当てて頭を垂れた。
「片付きました、フランシア様。……お怪我はございませんでしたか? 破片が飛び散りましたので、お召し物に触れてはいやしないかと案じておりました」
冷涼な朝露のような、完璧な侍女の気遣い。
皮肉でも当てつけでもない、純粋な職人の冷徹さ。
「貴女……っ!」
フランシアの顔が、屈辱と苛立ちで朱に染まった。
踏みにじったはずの泥棒猫が、傷一つ負わずに自分を気遣うような視線を向けている。精神的に打ちのめすどころか、まるで駄々をこねる子供をあやされているかのような、圧倒的な格の違い。
フランシアは激昂のあまり、卓上の黒い短剣へと手を伸ばしかけた。
だが、その指先が触れる直前――。
――コン、コン。
部屋の扉を叩くノックの音が響いた。
続いて、扉の向こうから通る、低く理知的な男の声。
「フランシア様。典礼省の婚姻日程に関する確認のため、参上いたしました。……クロード・フォン・ヴァルハイトです」
その名が落ちた瞬間、ミシャの背中が微かに強張った。
そしてフランシアの瞳には、先ほどの苛立ちとは異なる、昏く歪んだ光が灯った。




