第43話:朝霧の召喚
朝を告げる鐘の余韻が冷たい石壁に吸い込まれた直後、地下の静寂は無遠慮な足音によって破られた。
――ガチャリ、ガチャン!
重厚な鍵が外され、錆びた鉄格子の扉が軋んだ悲鳴を上げて開け放たれる。
現れたのは、侍女頭マルガレーテの側近である二人の下級侍女だった。手にはそれぞれ、氷のように冷え切った井戸水を満たしたブリキのバケツと、使い古されて毛羽立った硬い雑巾が握られている。
「起きなさい、泥棒猫! 第一王女殿下の朝のお目覚めよ!」
投げつけられた罵声とともに、バケツの水がミシャの足元の敷石へと容赦なくぶちまけられた。
水飛沫が跳ね、灰色の麻の侍女服の裾を濡らす。
だが、敷き詰めた麻布の寝床の上に腰掛けていたミシャは、怯えて身を縮こまらせるどころか、すでに前下がりの黒髪を端正に撫で付け、背筋を真っ直ぐに伸ばして立ち上がった。
「朝のご挨拶を申し上げます。フランシア様がお呼びなのですね」
微塵の澱みもない、澄み渡った菫色の瞳。
下級侍女たちは、平伏して命乞いをするどころか王家の令嬢のような気品を崩さないミシャの態度に、気圧されたように舌打ちを鳴らした。
「……生意気な! 殿下が直々にお前の顔を拝んで仕置きをつけてやると仰せなのよ。さあ、足を動かしなさい!」
突き飛ばされるようにして地下室を引きずり出され、石造りの狭い螺旋階段を上っていく。
黴と湿気の底から、朝日が差し込む豪奢な離宮の上層へ。
かつて自分が「王女」として闊歩していた磨き抜かれた大理石の回廊には、すでに多くの侍従や女官たちが行き交っていた。
灰色の粗布を纏い、両脇を固められて歩かされるミシャの姿を認めるや、彼らは嘲笑と好奇に満ちた視線を隠そうともせず突き刺してくる。
「まあ、あれが噂の……」
「よくもまあ、平然と王家の敷居を跨いでいられたこと」
「今朝から殿下の専属雑用係だそうよ。どれほど苛烈なお仕置きが待っていることか」
囁き声の刃が幾重にも降り注ぐ。
けれど、ミシャの足取りは乱れなかった。
森で三姉妹妖精から教わった呼吸を保ち、視線を真っ直ぐ前に据える。他人の悪意の泥水に足を取られることほど、針子にとって無駄な時間はない。
やがて辿り着いたのは、金箔のロココ彫刻が施された王女の寝室の巨扉。
侍女がノックをし、扉を開け放つ。
「フランシア様、罪人を連れてまいりました」
天蓋付きの豪奢な寝台の傍ら、朝の柔らかな光を浴びて鏡台の前に座っていたのは――真紅のシルクガウンを羽織ったフランシアだった。
サロンの女官によって美しくフィンガーウェーブを施された黒髪、唇には血のように鮮やかな紅。
昨夜のずぶ濡れの黒衣とは打って変わり、非の打ち所のない「王国の紅薔薇」の姿を取り戻していた。
だが、その手元には――ガッシュの船から持ち帰った、あの黒い短剣が無造作に置かれていた。
「下がりなさい。全員」
フランシアが鏡越しに低く命じる。
マルガレーテの手下たちは怪訝そうに顔を見合わせたが、王女の双眸に宿る獰猛な光に気圧され、深々と一礼して部屋から退室していった。
バタン、と重い扉が閉ざされ、部屋には二人きりの静寂が落ちる。
フランシアはゆっくりと椅子を回転させ、灰色の侍女服を着た自らの鏡像を見下ろした。
その視線は、獲物をじわじわとなぶり殺しにする冷酷な捕食者の色を帯びている。
「よく眠れたかしら、ミシャ? 冷たい石畳のベッドは、私の絹のシーツほど寝心地が良くなかったでしょう」
嘲るような問いかけ。
ミシャは静かに一歩進み出ると、完璧な所作で膝を折り、侍女の礼を取った。
「お気遣い痛み入ります、フランシア様。森の水車小屋の冬に比べれば、風の吹き込まぬ温かな部屋でございました」
「……っ」
眉ひとつ動かさずに返された平然たる言葉に、フランシアの眉根が引きつるように跳ね上がった。
求めていた屈辱の涙も、命乞いもない。
フランシアは立ち上がると、卓上にあった銀のトレイを、敷石の床へと乱暴に薙ぎ払った。
ガシャンッ!
甲高い金属音とともに、砕け散った陶器の破片と、真っ黒な茶葉が床一面に散らばる。
「口先ばかり達者な泥棒猫ね。……ならば、これ片付けなさい。手袋も箒も使わず、その素手で破片の一つ残らず拾い集めるのよ。指の一本や二本、切り刻まれて血を流せば、少しは分相応の慎みを覚えるかしら?」
冷酷極まりない命令。
だが、散らばる破片を見つめるミシャの菫色の瞳は、少しも揺らいでいなかった。




