第42話:勢力図の地鳴り
夜明け前の青薔薇の離宮は、冷たい朝霧に包まれながらも、水面下で激しい地鳴りを上げていた。
本物の第一王女フランシアの生還。そして、壇上で偽りの王女を演じていた謎の針子の発覚。
公式には「王女殿下の急なご遊興による影武者立て」という不自然極まりない繕いが典礼省から下されていたが、百戦錬磨の宮廷貴族たちがその欺瞞を見抜けないはずもなかった。
離宮の東翼、重厚なウォールナットの執務机の前で、王弟フェルディナント公爵が苛立ちを露わに葡萄酒のグラスを煽っていた。
「……忌々しい。運河に消えたはずの小娘が、どこで生き延びて戻ってきたというのだ」
整えられた口髭を指先でなぞりながら、フェルディナントは手元の羊皮紙を睨みつけた。
そこには、かつてあの偽物の針子――ミシャに辻褄の合わなさを看破され、公衆の面前で赤っ恥をかかされた新大陸航路の権益譲渡書があった。
無能な本物に戻ったところで、今度は外海で猛毒を吸ってきたような獰猛な目をしている。傀儡にして鉱山利権を吸い上げる計画に、手痛い狂いが生じていた。
「クロードはどうした。昨夜から姿を見せぬようだが」
控えていた側近の従僕が、怯えたように首を縮める。
「は……それが、昨夜の広間の騒乱ののち、クロード様は自室に戻られたきり、どなたの面会も拒んでおられます。太后陛下からの呼び出しにすら、使者を追い返されたとか……」
「あの小童が……! 誰の血を引いてその地位に就いているのか、忘れおって」
フェルディナントはグラスを乱暴に卓上へ叩きつけた。
その頃。
離宮の最上階、重厚な鉄の扉で閉ざされたクロードの私室は、蝋燭の火も灯されぬまま、完全な闇に沈んでいた。
黒の軍礼服を着崩すこともなく、クロードは長椅子に腰掛け、両手を組んで微動だにしていなかった。
机の上には、典礼省から届いた「フランシア殿下との正式な婚約日程」の通達。
だが、その羊皮紙は無造作に床へ投げ捨てられ、男の足元で無残に踏みにじられていた。
銀縁眼鏡を外し、青い瞳を虚空へと据える。
男の脳裏を埋め尽くしていたのは、ずぶ濡れで扉を蹴破った本物の姿などでは断じてなかった。
――引き裂かれたドレスを前に、指先一つで薔薇の刺繍を咲かせた、あの毅然とした横顔。
――病床の母妃の傍らで、痛ましさに胸を締め付けられていた、あの清冽な菫色の瞳。
――そして昨夜、純白の帳を剥ぎ取られ、灰色の粗布を纏わされながらも、一片の屈辱にも背を折らなかった、あの気高い背中。
(身代わり……偽物……森の針子……)
クロードの胸の奥で、昏い熱情が火山のマグマのように沸き立っていた。
宮廷の血筋など、王家の名誉など、どうでもよかった。
規律と法だけを信じ、氷のように生きてきたこの男の魂を初めて焼き焦がしたのは、血統の看板などではない。過酷な運命を自らの知恵と針一本で切り拓いてみせた、あの名もなき少女そのものだったのだ。
「……私の姫は、あんな地下の泥水の中にいる」
クロードの唇から、掠れた呟きが零れ落ちた。
青い瞳の奥に宿るのは、忠臣の理性ではなく、奪われた唯一の光を奪還せんとする獣の狂気。
その時、離宮の時計塔が、朝の訪れを告げる重々しい六つの鐘を鳴り響かせた。
新しい一日が始まる。




