第41話:星の巡り
地下の湿った空気の中に、香炉の焚きガラのような甘く重い匂いが立ち込めていた。
錆びた鉄格子を挟み、ミシャは壁に背を預けたまま、音もなく佇む黒い修道女を見据えていた。
灰色の侍女服の胸元を小さく押さえる。粗末な麻布の向こうで、心臓が静かに拍動していた。取り乱し、怯えを見せれば、その瞬間にこの女の毒牙に首根っこを食い破られる――森で野生の獣と向き合ってきた本能が、そう警告を発していた。
「星の巡り、ですか」
ミシャの唇から漏れたのは、冷涼な湖面のように静かな声だった。
「神の教えを説くべき修道女様が、異端の占星術めいた言葉を口になさるのですね。礼拝堂の神父様方がお聞きになれば、眉をひそめられましてよ」
「ふふ……口の減らない小鳥ね」
カリッサは小さく喉を鳴らして笑った。
陶器のように血の気のない白肌に、夜の帳を凝縮したような漆黒の双眸。女は鉄格子に絡めた白い指先を滑らせ、その隙間から、まるで蛇が獲物を品定めするようにミシャを覗き込む。
「教会が定める神の法など、人の手で記された紙切れに過ぎないわ。私が視ているのは、もっと古く、決して覆すことの叶わぬ天球の理よ」
カリッサの修道服の袖口から、微かに金属の触れ合う乾いた音が響いた。
真鍮と銀で組まれた精緻な円盤――天体の運行を刻む星盤。青白いランプの光を吸い、盤面の無数の目盛りが鈍く光を放っている。
「十九年前の冬の夜。天を二つに裂くようにして、紅と白、二つの不吉な星が並び昇った。……片方は王冠を戴き、片方は泥の底へと沈められたはずだった」
修道女の囁きは、蜜のように甘く、そして氷柱のように冷たく地下の石壁に染み渡っていく。
「けれど、沈められたはずの光が、こうして王城の敷居を跨ぎ、同じ顔をして玉座の前に立っている。……あなたが何処から湧いて出たのか、誰に拾われ、いかなるまやかしでその命を長らえてきたのか。私にはすべて視えているのよ」
ミシャの奥歯が、かすかに噛み合わさった。
十九年前の冬。自分が森の川原に捨てられ、三姉妹に拾われたというその時期。
だが、動揺を顔に出すことはない。ミシャは前下がりの黒髪の下から、冷徹な菫色の瞳でカリッサを射抜いた。
「わたくしは、ただの森の針子です。フランシア様の気まぐれに巻き込まれ、身代わりに仕立て上げられただけの……名もなき捨て子に過ぎません」
「ええ、そうね。今はそう信じていればいいわ」
カリッサは薄い笑みを消さぬまま、星盤を袖の中へと滑り込ませた。
その視線が、ミシャの足元、敷石の上に几帳面に敷かれた麻布の寝床へと落ちる。
「だが、覚えておきなさい。二輪の花が同じ土に根を下ろせば、やがて互いの養分を奪い合い、どちらかが枯れ果てる運命にある。……大奥様があなたを生かしておいたのは、フランシアの気まぐれを許したからではないわ。いずれその首を、最も残酷な形で切り落とすためよ」
カリッサがすっと背を向けた。
黒い修道服の裾が、音もなく床を払う。
「せいぜい、冷たい石畳の上で命を惜しむことね。……夜明けは、すぐそこよ」
修道女の気配が螺旋階段の闇へと溶け去った後も、地下室には不吉な香煙の残り香が澱んでいた。
一人残されたミシャは、暗がりの中で自らの両手を固く握りしめた。
二輪の花。紅と白。
妖精たちが歌っていた双星の伝説が、カリッサの不吉な予言と重なり、胸の奥で重く、冷たく脈打っていた。




