第38話:大奥様の裁断
切っ先が、ミシャの白磁の喉元をかすかに圧した。
皮膚が一筋裂け、一滴の鮮血が純白の絹の襞襟へと落ちる。
だが、ミシャの菫色の瞳は微動だにしなかった。恐怖に泣き叫ぶことも、命乞いをすることもなく、静謐な湖のように冷ややかにフランシアの顔を見つめ返している。
「控えよ、曲者共! その偽物を捕縛し、即刻地下牢へ叩き込め!」
我に返った典礼尚書が、唾を飛ばして近衛兵たちへ怒号を浴びせた。
王家を騙り、神聖なる婚約の儀を穢した大逆人。その罪は問答無用で極刑――火炙りか、四つ裂きの刑に値する。
抜刀した十数名の兵が、壇上のミシャへと殺到しようとした。
「――控えなさい」
その一喝が、騒乱の嵐を切り裂いた。
地鳴りのように低く、だが大広間の空気を絶対的な重圧で凍りつかせる声。
玉座の前、能面のように感情を削ぎ落とした太后ヒルデガルドが、ゆっくりと立ち上がっていた。
白銀の髪に喪服めいた深藍のベルベットドレス。青薔薇のロザリオを握り締めた女帝の双眸は、壇上の二人を射殺さんばかりの冷眼で見据えている。
その傍らに侍るシスター・カリッサの唇の端には、全てを嘲笑うような陶器めいた微笑が浮かんでいた。
ヒルデガルドの歩みに合わせて、近衛兵たちが蜘蛛の子を散らすように道を開ける。
老鷹のような視線が、まず泥まみれのフランシアの胸元――青薔薇のペンダントへと落ちた。
「……本物の証を掲げ、ずぶ濡れの黒衣で現れた第一王女。そして、我が手元で何食わぬ顔をして王家の血筋を騙り続けた、名もなき泥棒猫」
太后の声は、冬の氷河のように冷徹だった。
「典礼尚書の言う通りです。王家の名誉を泥に塗ったこの大逆人は、夜明けを待たずに広場で首を刎ね、見せしめとして港の防波堤へ晒し首とするのが法の定め」
「太后陛下ッ!」
クロードが前へ出ようと軍礼服の裾を翻した。その青い瞳には、理性のタガが外れかけた狂気の火が宿っている。
だが、それを遮ったのは、他ならぬフランシアだった。
「お待ちになって、大奥様」
フランシアは短剣を引くことなく、背後の太后へ冷ややかに顔を向けた。
その横顔には、かつての温室の小鳥の甘さなど欠片もない。外海の修羅場を潜り抜けてきた女だけが持つ、獰猛な計算の光が宿っていた。
「首を刎ねる? そんな生温い慈悲を、この泥棒猫に与えてやる道理がどこにありますの?」
「……何だと?」
ヒルデガルドの眉根がピクリと動いた。
「私の不在に乗じ、私のドレスを纏い、私の男に媚びを売って王女の椅子を温めていた卑しい針子です。一瞬で首を落として楽にしてやるなど、私の怒りが収まりませんわ」
フランシアの指先が、ミシャの短く切り揃えられた黒髪を、短剣の平で乱暴にすくい上げた。
冷たい鋼の感触が、ミシャの頬を撫でる。
「この女は、死ぬまで私の足元に侍らせます。陽の当たらぬ地下のリネン室に押し込め、私の汚れたドレスの裾を洗い、私の脱ぎ捨てた靴を磨かせる。……第一王女フランシアの、最も身分の低い『専属侍女』として、生き恥を晒し続けさせるのです」
広間に、どよめきが走った。
極刑よりも残酷な、生涯にわたる私刑。
だが、その言葉の裏にある「真意」を、ミシャは見抜いていた。
(……この人は、私を殺させない気だ)
太后の冷酷な法に委ねれば、ミシャは今夜のうちに首を落とされる。
フランシアは「私刑」という残酷な衣を被せることで、ミシャの身柄を太后の手から力任せに奪い取り、自らの絶対的な支配下へと囲い込もうとしているのだ。
歪んだ執着。逃れようのない、あまりに重く息苦しい保護の檻。
ヒルデガルドは暫し、鋭い視線でフランシアの菫色の瞳を覗き込んだ。
かつての我儘で無能な孫娘とは違う。外海で猛毒を吸い、牙を生やして戻ってきたその変わり様に、太后は薄い舌打ちを呑み下した。
「……良かろう。婚礼の夜会を血で汚すのは、王家の不吉。その処遇、お前に一任します」
太后の乾いた宣告が下された。
「ただしフランシア。お前の婚礼は破棄ではない。新月の夜までに身辺を清め、クロードとの婚儀を執り行いなさい」
太后が踵を返した瞬間、フランシアの短剣がミシャの喉元から離された。
フランシアはミシャの耳元へと顔を寄せ、凍りつくような甘い毒の囁きを落とした。
「……拾った命を、私のために使い潰しなさい。私の白百合」




