第37話:二人の王女
大広間に立ち込める硝煙の向こう、時間が凍りついていた。
何百人もの高位貴族、近衛兵たち、そして玉座の傍らで能面のように佇む太后ヒルデガルド。その場の全員の視線が、赤絨毯の上で対峙する「二人の同じ顔」の間を激しく往復していた。
片や、極上の絹繻子で仕立てられた純白の夜会ドレスを纏い、白銀の光を浴びて立ち竦むミシャ。
片や、潮水と泥にまみれた漆黒の粗布を纏い、硝煙漂うフリントロック銃と抜身の短剣を提げたフランシア。
鏡像。
寸分違わぬ白磁の輪郭、夜露のように澄んだ菫色の瞳、切り揃えられた漆黒の前下がりボブ。
だが、放つ気配は完全な対極だった。静謐な湖のような気品を湛えるミシャに対し、フランシアは外海の嵐をその身に宿した猛獣そのものだった。
「き、貴様は何者だッ! 第一王女フランシア殿下の御前であるぞ!」
我に返った典礼尚書が、引き攣った声を張り上げた。
宮廷の誰もが、フランシアはずっと離宮にいたと信じ切っていたのだ。目の前の壇上に座す姫君こそが本物の王女であり、扉を破って現れた黒衣の女など、不吉な刺客か妖異の類としか映らない。
近衛兵たちが一斉にサーベルを抜刀し、フランシアを取り囲もうと包囲を狭める。
だが、フランシアは眉ひとつ動かさなかった。
濡れた黒髪を手甲で無造作に払い上げると、胸元から一つの細工物をつまみ出し、広間の頭上高くへと掲げてみせた。
――カラン、と。
蝋燭の光を浴びて青く妖しく煌めいたのは、王家に代々受け継がれる秘宝――海藍石で彫り出された「青薔薇のペンダント」。
裏面には、ルミエール初代国王の親筆刻印。いかなる名工とて偽造の叶わぬ、第一王女の証。
「この紋章に見覚えがないとは言わせないわ。典礼尚書、貴方のその濁った目は飾りかしら?」
冷徹に響き渡る声。
典礼尚書の膝ががくりと折れ、抜刀した近衛兵たちの切っ先が激しく揺らいだ。
本物だ。
あのペンダントを持つ者こそが、正真正銘のルミエール王国第一王女フランシア・ド・ルミエールその人。
「……では、壇上にいらっしゃるあのお方は……?」
「替え玉……!? 大逆無道の偽物か!」
広間が蜂の巣をつついたような騒乱に呑まれていく。
ミシャを守るように立ちはだかっていたクロードの背中が、微かに強張った。
男は銀縁眼鏡の奥の青い双眸を細め、濡れた黒衣のフランシアを冷ややかな眼差しで射抜いた。その瞳には、突如現れた正統なる婚約者への敬意など欠片もなく、愛する聖域を土足で踏み荒らされた獣のような敵意が宿っている。
「クロード」
フランシアの唇が、嘲弄に歪んだ。
一歩、また一歩と、短剣の切っ先を下げぬまま壇上へと階段を上ってくる。
泥に汚れた革ブーツの音が、大理石に重く響く。
「その腕の中にいる売女の腰から、今すぐ手を退けなさい。……それとも、森で拾われた身元も知れぬ針子の偽物に、本気で骨抜きにされたとでも言うのかしら?」
針子。
その決定的な単語が落ちた瞬間、ミシャの心臓が早鐘を打った。
剥がされた。
必死に守り抜いてきた仮面が、何百人もの冷酷な貴族たちの眼前で、無残に引き裂かれたのだ。
ミシャはクロードの腕をそっと押し戻し、純白のドレスの裾を引いて一歩前へ出た。
逃げ場はない。弁解の余地もない。
けれど、ミシャの菫色の瞳は、恐怖に濁ることはなかった。妖精たちと冬を越えてきた針子の魂が、冷たく冴えわたっていく。
「……お久しぶりですわ、フランシア様。ご無事で何よりです」
静かな、だが凛とした声が大広間のざわめきを切り裂いた。
動じることなく自分を見据え返すミシャの姿に、フランシアの瞳の奥で、昏い激情が爆ぜた。
「どの口がそれを言うの、泥棒猫」
フランシアの細い手が疾風のように伸びた。
冷たい鋼の刃――漆黒の短剣の切っ先が、ミシャの白磁の喉元、皮膚が裂ける寸前の薄氷の距離でピタリと静止した。




