第36話:黒の凶弾
大広間の空気は、蜜蝋の甘い香気と管弦の調べに酔いしれていた。
豪奢なシャンデリアが無数の光の粒を大理石の床へと降らせ、着飾った貴族たちがグラスを掲げている。
中央の赤絨毯の上、純白の夜会ドレスを纏ったミシャは、クロードにエスコートされて一段高い壇上へと歩みを進めていた。
白手袋越しに伝わるクロードの手の熱。
男の青い双眸は、周囲の歓声など一切視界に入れず、ただミシャの横顔だけを熱烈な崇拝の色で見つめている。
(……このまま、すべてを騙し通せるはずがない)
胸元の奥、肌身離さず忍ばせたセリアの手紙が、冷たく皮膚を刺していた。
偽りの王女としての晴れ舞台。
拍手喝采のただ中で、ミシャの心臓は逃れようのない破滅の足音を聞き取るように、冷たく凍りついていた。
その時だった。
――ズドォォンッ!
祝祭の調べを微塵に粉砕する、凄まじい轟音が響き渡った。
大広間の正面、何重もの閂で固められていたはずの樫の双開き扉が、蝶番ごと弾け飛んだのだ。
爆風とともに吹き荒れる外海の冷たい夜風。
数百本の蝋燭の炎が一斉に掻き消え、悲鳴を上げる貴族たちの頭上を、砕け散った木片と硝煙の白煙が覆い尽くす。
「な、何事だッ!?」
「近衛兵! 侵入者だ、前へ出ろ!」
怒号と抜刀の金属音が乱反射する中、ミシャの腰を抱き寄せて瞬時に背後へ庇ったクロードが、冷徹な視線で硝煙の奥を射抜いた。
吹き込む嵐の闇の底から、敷石を激しく踏みしめる濡れた靴音が近づいてくる。
床にポタポタと滴り落ちるのは、潮水と泥の染み。
白煙を切り裂いて現れたのは、一人の女だった。
喪服のように濡れそぼった、漆黒のウールドレス。
海風に晒されて潮焼けした肌、切り揃えられた黒髪は額に荒々しく張り付いている。
右手に提げられているのは、銃口から青白い煙を立ち上らせる一挺のフリントロック式短銃。
そして左手には、抜身の漆黒の短剣が、逆手に握り締められていた。
近衛兵たちが一斉にサーベルを構え、銃口を向けようとした瞬間、侵入者の女は冷ややかに顎を上げた。
「……動くな、無礼者共」
低く、だが骨の髄まで凍りつかせるような鋭利な声。
女の菫色の双眸が、広間の貴族たちを、そして壇上に立つ二人を猛禽のように射抜いた。
大広間の全員が、息を呑んで凍りついた。
その顔。
潮風に汚れ、野生の牙を剥き出しにしていながらも、そこに刻まれているのは――壇上で純白を纏うミシャと、毛筋一本違わぬルミエール王家の輪郭。
「ひ……第一王女、フランシア様……?」
誰かが掠れた声を漏らした。
本物のフランシアは、床に散らばる木片を踏み砕きながら、真っ直ぐに赤絨毯を歩み進む。
その刃のような視線は、クロードの腕の中で立ち尽くすミシャの顔だけに注がれていた。
「ずいぶんと華やかなおままごとですこと」
フランシアの薄い唇が、ぞっとするような嘲笑の弧を描いた。
短剣の切っ先が、ミシャの喉元へと真っ直ぐに突きつけられる。
「私の服を着て、私の男の隣で……よくも私の椅子に座ってくれたわね、泥棒猫」




